井出 薫
原初的な技術は身体の拡張だった。それが発展すると、身体から大きく離れ、社会的なシステムとなる。そこでは、技術の両輪である知とモノは分離する。そして知とモノもそれぞれ細分化する。知は断片化し、技術はモノを通じて統一化する。ただし、そこには常に故障や想定外の動作という問題がある。そのような状況の下、知に対するモノの優位が確立する。さらに、現代においては、技術が巨大で普遍的なものとなり、人間に対して支配的な存在となる。身体の拡張だった技術は、現代においては、逆に、技術の拡張が身体になっている。 技術が支配的になることで、それはハイデガーが述べるところの集立という性格を有するようになり、人は用立てられる存在となる。人がスマートフォンを使いこなすのではなく、人はスマートフォンが自由に使えるように変容を求められ、そしてうまく適応できない者を除いて、事実そうなる。適応できない者は非難される。いずれ人の指はスマートフォンの画面を操作するのに適した存在となるだろう。 技術は人間が生み出したものであり、その逆ではない。では、なぜ、人間が技術を支配するのではなく、技術が人間を支配するかのような状況が生まれるのだろうか。それは、人間が自然的な存在だからだ。自然的な存在は元来モノとして存在する。知はモノの活動の痕跡に過ぎない。モノとしての人間が生み出したのが、根源的に知を支配するモノであり、それが技術の核をなす。技術は人間が生み出した。しかし、技術を今ある姿にしたのは、人間の主体的な行動ではなく、存在に促されたからだとハイデガーは指摘する。その存在とは、実は(ハイデガーの意図するところとは異なり)モノなのだ。 シアノバクテリアは、酸素発生型の光合成を行い、自らの栄養を効率よく得るとともに、ほとんど酸素が存在しない原始地球の大気に酸素をもたらした。その後、シアノバクテリアが共生して誕生した植物性プランクトンなど光合成する真核生物がさらに酸素を大気に大量に供給し、現代の地球生態系が誕生することになる。地球の歴史において、シアノバクテリアが果たした役割とその影響の大きさは人類の文明を凌ぐ。そして、人間とシアノバクテリアには共通点がある。シアノバクテリアが生み出した酸素は、好気性の生命体を生み出し、地球を陸海空とも生命が溢れる惑星にすることを可能にした。だが、最初に酸素を放出したシアノバクテリアは嫌気的な環境に適応した生命体であったがゆえに、シアノバクテリアにとって酸素は猛毒だった。シアノバクテリアの一部は自らが生んだ酸素で死滅した。その中で、シアノバクテリアは酸素を無害化し逆に有効活用する術を身につけ生き残り、今でも大繁栄している。つまり、自らが生み出したもの−それは身体の拡張に類するものだが−により窮地に追い込まれ、それに適応する機能を突然変異で手に入れることで生き残った。シアノバクテリアも、人と同様に支配者ではなく、モノに支配される存在だ。そして、人間もまた今、自らの産物である技術により、富と安全を手に入れる一方で、環境問題などで窮地に陥っている。 人間は、技術を介して、知によりモノを制御し、自然と文明を調和しようとしてきた。しかし、モノは知に優り、知はモノに統制される。酸素に苦しめられたシアノバクテリアと同様に、技術により苦しめられている。公害、地球温暖化、ゴミ、汚染された空気と水、ストレスと不安、技術の産物に適用しようとすることで生じる恒常的な身体の不調などで苦しめられている。それは原初的なシアノバクテリアと変わらない。 シアノバクテリアは突然変異で酸素の無毒化、有効活用という機能を手に入れ、地球生態系と調和しながら繁栄を遂げることができた。だが、果たして、人間も同じことができるだろうか。人間の身体あるいは社会に突然変異が生じ、地球生態系と共存共栄することができればよいのだが、相当に難しいと思われる。シアノバクテリアは地球上のモノとしてありふれた存在だが、人間はかなり変わったモノだからだ。 了
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