井出 薫
戦後から60年代まで、日本の哲学思想を支配したのは、マルクス主義と実存主義だった。そして、この二つの思想を融合させたサルトルが当時、20世紀最大の哲学者と称賛されていた。しかし、共産主義運動の後退も手伝って、70年代以降、二つの思想は衰退していく。確かに、マルクス主義は、共産主義を過大評価し資本主義を過小評価していた。またその唯物論は弁証法という名をつけていたにしても、機械的、自然主義的であり、社会の在りようの分析が機械的であるなど多くの難点を有していた。実存主義は孤独な人間の決断を人間(実存としての人)の本質とし、日常に生きる平凡な人間の在り方、人と人の共同生活の現実を軽視した。二つの思想とも、革命の熱狂が人々の心を捉えていた時代にのみ相応しいものであり、熱が冷めると、その哲学思想への共感も冷めた。 代わって台頭したのが、大陸哲学系の構造主義、ポスト構造主義であり、英米哲学系の分析哲学であった。しばしば、それはポストモダニズムと呼ばれる。それとともに、20世紀最高の哲学者という栄誉はサルトルから、ハイデガーとウィトゲンシュタインにとって代わった。構造主義、ポスト構造主義、分析哲学などと言っても、様々な思想的な立場があり、それらを少数の基本的な思想に要約することはできない。ただ、総じて言えば、言語分析、相対主義、構築主義などという言葉で表現できるような性格を持つと言える。哲学とは、言葉を使うことであり、また哲学的思索は言葉を分析の対象としている。これは、言われてみれば当たり前のことであるが、長い間、軽視されてきた。言葉とは、実在とその真理を表現するための単なる便宜的な道具に過ぎず、哲学の使命は言葉を分析することではなく、実在と真理そのものを捉えることであるというドグマが支配的だった。それが、しばしば言語論的転回などと称される変革(変革と言えるのか疑問があるが)により登場したのが、構造主義や分析哲学、その先駆的な哲学思想(ソシュール、数学基礎論など)だった。事実、ハイデガーとウィトゲンシュタインは、終生、徹底的に言葉に拘り続けた。相対主義は、共産主義革命を歴史の必然とするマルクス主義者の独善的な思想や運動への批判や反省を背景とするものであったが、それは実践論的な次元を超えて、認識論や存在論の次元にも広がった。その土台にあるのは、言葉の恣意性の認識であり、客観的な真理の代表とされてきた物理理論などに関しても、クーンのパラダイム論に代表される相対主義が広がった。そして、相対主義の思想的な表現とも言える構築主義、およそすべての思想は社会的な背景の下で構築されたものであるとする構築主義が大きな力を持つに至る。構築主義は、その後、心理現象や技術論にも適用されることになり、様々な領域で大きな影響を与えた。クーンのパラダイム論なども構築主義の一種と言ってよい。だが、これらの哲学思想もやがて限界に突き当たることになる。そもそも、量子論や相対論、遺伝子の理論などは相対的なものなのだろうか。確かにそれらも、数式など広い意味での言葉あるいは記号で表現され理解される。その意味では、言葉・記号の恣意性から免れるものではない。しかし、物理法則は人間が地球の歴史に登場する前から成立するものであり、客観的なものと考えるべきであるという常識が間違っているとは言えない。この常識に基づき、私たちは46億年の地球の歴史について語り、生命の誕生、酸素発生型光合成生物の誕生による大気中の酸素濃度の上昇、オゾン層の形成、陸上への生物の進出などを、地球の歴史の真実として語る。これは科学的に認識された客観的な歴史であり、単なる楽しい物語ではない。これは私たち現代人の常識であり、哲学者や原理主義的な宗教家以外の大多数が信じている。もちろん、このことが正しいことを哲学的に厳密に証明することはできない。それは、唯物論的で、科学主義的な現代人のドグマに過ぎず、その妥当性の根拠も知らずに、ただ信じているだけという指摘にも一理ある。マックス・ウェーバーも、現代人の合理主義とは、世界は合理的に動いているはずだという信仰に過ぎないと警告している。だが、天地創造説よりも進化論が、生物の世界とその歴史を正しく認識しているという考えは、哲学的厳密性の基準(疑う余地が全くない)を満たすものではないにしても、様々な根拠があり、納得できるものであり、また進化論に基づく予測や説明は満足の行くものであり、実用的にも多くの成功を収めたものであることを認めないわけにはいかない。また、相対主義は、徹底すれば、独裁政治と民主政治の間で優劣はないということにならざるを得ない。独善的な思想に陥ることを回避するという観点では、相対主義は意義があるが、政治や倫理の世界では、行き過ぎた相対主義は破滅的な帰結を生む。構築主義は相対主義の一種であり、自然科学の客観的な側面をうまく説明できないし、政治や倫理の世界では、往々にして構築主義者は自家撞着に陥る。構築主義者とて、個々人は独自の政治的、倫理的な理念を持ち、その主張は絶対主義的な色彩を帯びている。たとえば、左翼やリベラルな傾向を持つ構築主義者は、往々にして、「安倍は言葉を軽んじる首相だ」、「トランプのような人物を大統領にしたことが米国の不幸の始まりだ」などというが、それは正しいとしても、断定的に語ることは構築主義の精神に反する。少なくとも、「私の思想を形成する背景をもとにして評価すれば・・」という前置きをしないと、構築主義の精神に反する。しかし、まず、こういう前置きをする者はいない。だが、そのこと自体は必ずしも悪いことではなく、政治的な議論や評論をする際にはよくあるレトリックであり、独断的な主張が議論のきっかけになることも多い。大切なことは、独断的な主張をした際には、批判を受容し、再考する余地があることを認識することだ。それがあれば、ときに独断的な主張をしてもよい。要するに、構築主義は、自然だけではなく、社会の現実においても、その実態を適切に把握する思想とは言えない。 こうして、現在、ポストモダニズムにとって代わる哲学思想が求められている。しかし、以前のマルクス主義や実存主義に戻ることは出来ない。そこには多くの難点があることが分かっているからだ。では、どうするか。様々な哲学者たちが様々な試みを行っているが、これと言った決定打はない。日本は言うまでもなく、諸外国でも、哲学そのものが衰退しているという見方も根強い。そのなかで、近年、注目を集めているのが、40歳とまだ若いドイツの哲学者マルクス・ガブリエルだ。最近も、NHKで、『欲望の時代の哲学2020』という特集番組が放映され好評を博した。著作『なぜ世界は存在しないのか』もよく売れている。ガブリエルの思想は新実在論とか新実存主義などという名称で呼ばれることがある。ポストモダニズムと、古典的な科学的実在論(物理学的な宇宙が世界そのものである)をともに批判し、新しい実在を模索するというのがガブリエルの戦略で、彼の語る「世界」とは、物理的な「宇宙」とは異なり(「世界」≠「宇宙」)、存在(者)を指し示すものではなく、「宇宙」を包含しつつも、それと並存する「意味の場」を包含するものとして構想されている。これは、確かに、ポストモダニズムや科学実在論(戦後の主流派マルクス主義もこれに近い)を批判した新しい視点だと言える。ただし、本当に新しい視界を切り拓いたかというと疑問がある。テレビの特集では、ガブリエルは、現代技術が生んだ様々な問題、インターネットとモバイルが生み出す情報操作、地球温暖化、人工知能による支配などを語っているが、その内実は、カント以来のドイツ観念論とポストモダニズムを合わせたものに過ぎないという印象もある。これからの思索と活動に期待したいが、様々な試みの一つとして捉えるべきで、過大評価するべきではない。他にも様々な思想があるが、新しい哲学、21世紀の進むべき道を示唆する哲学が誕生しつつあるとは言えない。いや、哲学とは、これまでも常に、過去の哲学の批判と統合の試みを超えるものではなかったという者もいるだろう。ホワイトヘッドは、「西洋哲学とは、プラトンの著作の注釈だ」と述べた。哲学に新しさを求めるのは間違っているのかもしれない。だが、たとえ、そうだとしても、私たちの視界を大きく切り替えることを可能とする哲学は存在しうると思われる。それを新しい哲学と呼んでもよいだろう。筆者には、ガブリエルがそれだと思えない。だが、彼の哲学思想が注目されるということは、新しい視界を拓く哲学の登場が近いことを示唆しているようにも思える。それはかつてのマルクス主義のような汎用的なものではないかもしれない。それでも、私たち現代人の多くは、産業革命以来の路線を継承する現代の資本主義に限界を感じており、時代の変革を望んでいる。そのためには、新しい視界を拓く哲学が必要だ。その登場と、それを促す議論の活性化を期待したい。 了
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