井出 薫
ウィトゲンシュタインの生涯を描いたデレク・ジャーマン監督の映画に、ウィトゲンシュタインが学生に講義をする場面がいくつかでてくる。そこで、ふと思うのだが、新型コロナウィルスの感染拡大で、世界各国で、大学が休校となりオンライン授業に切り替わっているが、果たして、哲学をオンラインでできるだろうか。おそらくできない。 哲学において、言葉は決定的な重要性を持つ。だが、哲学のテクストに現れる言葉に力を与えるのは、人の息遣い、身振り、表情、口調などであり、ただの死んだ記号としての言葉ではない。筆者のように、独学で哲学書を通じて哲学を学んだ者にとっても、それは変わらない。たとえばカントの哲学を理解しようと思って、一人、家に籠って、『純粋理性批判』を読んでも、おおよそのことは理解できても、その神髄を知ることはできない。講義を聴き・質問し、教師や学生仲間と議論し、時には激しく論争しながら、そこで初めてカント哲学の本当の姿が捉えられる。そういう機会が乏しい者は、ひたすら多くの本を読み、自分の中で疑似的な議論の場を作るか、自ら解説や評論めいたものを書いて、独白することで探求を深めていく必要がある。つまり、自分を媒介にして息遣い、身振りなどをシミュレーションすることが欠かせない。こういったことはオンライン授業ではできない。質問することはできるし、他の学生と討論することはできる。しかし、そこにあるのは、形式的な文字や音声、精々が限られた動画など生きているとは言い難い記号だけであり、生の息遣い、表情、身振りを知ることは出来ない。また、独学で生み出される疑似空間を作ることもできない。 哲学の議論や探求において使われる論理は、数学、物理学などのように明快なものではない。自然科学の各分野は数学と物理学を基礎、基本的な方法とするから、その論理は明快だと言える。経済学も数学を多用し、現実の経済が適切に把握されているかの疑問はあるが、その論理は自然科学と同様に明快なものとなっている。それゆえ、自然科学や経済学はオンライン授業に馴染み、数理論理的思考が得意な学生は、ほとんどオンライン授業で必要な学習を済ませることができるだろう。しかし、哲学はそうはいかない。議論し、質問をぶつけあって、初めて思考が深まっていく。その過程で、先に述べた息遣い、表情などの理解が欠かせない。 哲学は対面での授業、講義、議論が欠かせない。さもなければ、徹底的な孤独の中で思索し疑似的な対話空間を生みだすことで哲学しなくてはならない。それゆえ、オンラインで哲学することはできない。哲学は役立たないと言われ、平時においては確かにそうだと思うが、危機の時代、先が見えない時代には哲学は欠かせない。現時点では、孤独の中で思索するしかないが、やはり、可能な限り集まって議論し探求することが望まれる。早く哲学的な議論の場が再開されることを期待したい。ただし、「口角泡を飛ばす」式の激論は当面自粛した方がよさそうだ。 了
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