☆ 物自体 ☆

井出 薫

 カントは、「認識できるのは現象だけで、物自体(Ding an sich)は認識できない」と論じる。これに対して、マルクスの盟友エンゲルスは、「認識不可能とされるアリザリン自体は、アリザリンを製造できるようになれば、消えてなくなる」と反論し、カントは理論認識と実践の弁証法を看過した形而上学的観念論だと批判する。

 エンゲルスは唯物論的な観点からカントを批判しているが、カントの主張の誤りを証明しているわけではない。アリザリンを製造できるようになったからと言って、私たちはアリザリン自身になるわけではない。それゆえ製造されたアリザリンは依然として物自体として認識不可能な対象に留まると考えることは出来る。その意味ではカントは間違っていない。しかし、このような考えにどのような意義があるだろうか。

 カントは物自体は感覚的に把握できない可想界に属するとする。そして、理論認識とは異質な道徳律は可想界に属するものと思念される。つまり、現象の背景にある理論認識できない物自体を想定することで、理論認識と異質な道徳律の根拠を確保していると言える。私たちの多くは科学と道徳は異質な存在であると考えている。科学的な知見や技術の進歩は道徳に大きな影響を与えるし、道徳的な観点から科学研究が禁止されることもある。臓器移植は脳死を死と認めるかどうかという道徳的な問題を引き起こしたし、人道的な観点から生物兵器や化学兵器の研究開発は原則的に禁止されている。このように現代世界において、科学と道徳は密接に関連している。しかし、それでも道徳的決断や道徳律は科学から導き出すことはできない。功利主義が妥当か、義務倫理が妥当か、あるいは徳倫理か、これらの是非、優劣を科学から導くことはできない。道徳的決断において科学は重要ではあるが参考情報を与えることができるに過ぎない。それゆえ、科学と道徳は別の領域に属すると考えることには正当性がある。その点で、カントが理論認識不可能な物自体という概念を提唱し、そこに道徳の可能性を読み込んだことは評価できる。

 しかし、物自体は現象を通じて認識されているのではないか、カントは物自体は理論認識できないとしながらも、物自体の実在を認めているが、矛盾ではないかという批判もある。科学的・理論的認識の領域としての感覚界と道徳律が属する可想界という存在論的な二元論は、道徳の特異性を説明するうえでの便宜的な道具としての意義は認められるが、それ以上のものではない。存在論的な二元論を持ち出さなくても、科学と道徳の差異を説明することはできるのではないか、という異論もある。実は筆者も最後の意見に概ね同意する。言語論的に、実践的に、科学と道徳の差異を説明し、それぞれの特性を明らかにすることはできないことではない。

 そうは言っても、カントの物自体という概念は今でも意義があると考える。科学と道徳、身体と心、物と精神、自然と社会など未解決の哲学的な難問が多数残っている。それに関して思索するとき、カントの物自体という発想は役に立つ。物自体は、哲学の基礎原理とはなりえないが、哲学的な思索のための重要な手すりであることには変わらない。


(2020/4/27記)


[ Back ]



Copyright(c) 2003 IDEA-MOO All Rights Reserved.