☆ 現代技術の在り方 ☆

井出 薫

 近頃、新型コロナウィルスの電子顕微鏡写真をよく目にする。ウィルスの大きさは0.1ミクロン程度で、可視光の波長(0.4から0.8ミクロン)よりも小さい。このようなミクロの世界を映像化する技術は本当に凄い。

 しかし、電子顕微鏡が描き出す世界は、(視覚的に捉えられる)目に見える世界や光学顕微鏡で見える世界とは全く異質で、量子論の原理に基づき、大きな力で対象に働きかけ、そこから得られたデータから数理学的に構成された世界だ。

 現代の技術は、存在を挑発し、エネルギーを略奪するとハイデガーは論じている。ハイデガーに従えば、電子顕微鏡は、量子論で記述される原子分子の世界を挑発し、可視化可能な像を作り出す技術ということになろう。

 現代の技術は伝統的な人と存在との関わり方、存在を見守る、育てるというあり方を根底から変えたとハイデガーは考える。そして、ハイデガーは、そのような技術の変容は歴史的な必然ではあるが、自然環境の破壊や人のモノ化に繋がっていると診断する。

 だが、電子顕微鏡に、そのような倫理的な意味を持ち込むことには無理がある。原子分子は、(科学哲学でよく問題となるような)それを実在と捉えるか(科学的実在論)、理論的構築物として捉えるか(反実在論)、いずれにしろ、もっぱら自然科学の理論的研究の対象であり、原子力発電などその応用については別にして、それ自身が倫理学的な対象となることはない。それゆえ、電子顕微鏡を存在を挑発するものの一つとして捉えることは適切ではない。それは、構成された世界とは言え、目に見える世界、光学顕微鏡の世界の延長線上にあると言ってよい。

 現代技術の在りようには、確かに、ハイデガーが語るような暴力的な側面がある。しかし、現代技術の特質は、それに尽きるものではない。そこには、電子顕微鏡のように、存在を見守り、育てるという伝統的な技もまた継承されている。古代の技術にしろ、現代の技術にしろ、そこには様々な顔があり、存在を見守り育てる顔と、存在を自らの目的のために支配、改造、略奪、破壊する顔がある。そのことを理解し、安易に現代技術を否定することも、称揚することも避ける必要がある。


(2020/4/20記)


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