井出 薫
新型コロナウィルスの感染拡大で、カミュの『ペスト』を思い出す者が少なくない。実は、筆者も同じで、書棚で『ペスト』を探したが見当たらなかった。たしか、30代のころ読んだ記憶があり、書棚のどこかに保管してあったはずなのだが、カミュへの関心がなくなり捨ててしまったのかもしれない。 しかし、今の状況は、実存の不条理を追求したカミュの世界というよりも、日常のありふれた生活と人とに唐突に訪れる危機と破滅を描くカフカの世界に似ていると感じる。カミュへのカフカの影響は決定的で、二人には共通点が多いとはいえ、不条理を前面に出すカミュと、日常性を土台とし、その日常に潜む不確実性を描くカフカには違いも多い。そして、新型コロナが生み出した状況は、日常性と不確実性に本質がある。 ウィルスはどこにでも存在する。健常者でも年に何回かは風邪をひく。その大半がライノウィルスや(新型ウィルスとは別種の)コロナウィルスなどのウィルスによるもので、人とこれらのウィルスは共存していると言ってもよい。風邪は不快だが、ときどき感染することで人は休養し、また免疫が活性化されるから、必ずしも無益なわけではない。また、このようなごく軽症ですむウィルスの存在が、重症化するウィルスの蔓延を阻止しているという面もある。もし、新型コロナウィルスが重症化することがほとんどなく、致死率が季節性インフルエンザよりも低ければ、大した問題とはならず、人は共存することができただろう。 だが、そうはならなかった。このありふれた存在であるウィルスの一種が突然、毒虫に変身したザムザや、理由もなく告訴されたヨーゼフ・Kのような状況を世界に作り出した。2月の初旬までは中国を除く世界の多くの人々は他人事だと思いこみ、日々の生活を謳歌していた。ところが僅か一カ月半で、状況は一変した。人々はなぜそのような状況が生み出されたのか分からず、また、いつ、どうすれば、そこから脱却できるのかも分からないまま、ただ、ひたすら家に籠り、嵐が通り過ぎるのを待っている。科学や技術が発達した現在でも、手強い新型ウィルスの前には、なすすべがないとまでは言わないまでも、ほとんど無力であることを人々は思い知らされている。その姿は、ザムザやヨーゼフ・K、あるいは『城』の測量士Kに似ている。 ワクチンや治療薬の開発、多くの人が抗体を獲得すること、などで、いずれ感染は収まるだろう。だが、それまでにどれだけの月日が掛かるかは誰も分からない。感染が終息せず、来年7月に予定される東京五輪が結局中止になることも十分にあり得る。 カフカの文学は、日常性には常に不確実性と危機が潜んでいることを示唆する。そして、新型コロナウィルスの感染爆発はそれが現実であることを証明している。 了
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