☆ 自然とは ☆

井出 薫

 自然とは曖昧な概念で、論者によってさまざまな意味をもつ。物理学者にとっては、自然とは宇宙、物理法則が成立する全世界という概念にほぼ等しい。生物学者ならば、地上の生態系とそれを取り巻く地質学的、気象学的環境を通常、意味する。ただし、火星や木星など生命体が存在しうる場所を含めることもある。生物学者も、物理学者と同様に太陽や銀河を自然界に属する存在であると考えているが、それらを自然という概念のもとで捉えることは少ない。生命体の存在の可能性がある火星や木星と違い、それらは生命とは直接関連しないからだ。化学者、地質学者などはまた違う自然観を有する。

 人文学、社会学系の学者は、自然をその字句の通り、「ありのままの存在」というように解釈する。古代ギリシャの思想家は、法や制度のような人為的な存在をノモスと呼び、それらを超えた「ありのままの存在」をピュシスと呼んだ。ピュシスが現代の「自然」に相当すると考えてよい。自然科学系の自然についても、それが制度などに依存しない「ありのままの存在」という観点からすれば、人文社会学的な自然つまりピュシスと一致する。

 しかし、哲学者は違う見方をする。古代ギリシャにおいては、プラトンもアリストテレスも、基本的には自然=ピュシスという立場をとっていた。だが、カントにおいて、この「自然」観は大きく変容した。自然、ありのままの存在は、カントにとっては認識不可能な物自体であり、自然科学者が扱う自然とはすでに、人間の理性構造により構成されたものとなる。物理学者は自分たちの認識は自分たちの意志や意識に関わりなく実在する客観な存在に対する客観的なものだと信じているが、カントによるとそれは間違いだということになる。物理学者の認識は、時間と空間、因果律などにより構成された枠組みにおける、数学的・論理学的な認識ということになる。それは確かに対象を非常にうまく捉えるものであり、実用的にも極めて有益だが、それは「ありのままの存在」ではない。ヘーゲルはカントの考えを批判して、弁証的に自然そのものも認識できるとしたが、自然が構成された概念であるとする思想はカントと変わることはない。ありのままの存在はヘーゲルにおいては精神であり自然ではない。

 カントの考えは極端な観念論、自然あるいは世界などという言葉で表現される存在は、すべて人間の意識や知見が生み出したものであり、ありのままの存在など、実在しないという考えに繋がる。しかし、さすがにこのような考えは支持されない。もし、それが正しいとすると、たとえば「人類が誕生する前の地球」という概念は単なる便宜的なもの、想像に過ぎないことになる。そもそも昨日という日があったことすら空想にすぎないとも言えるし、存在するのは私だけだという独我論が正しいことにもなる。それが誤りであることを厳密に証明することはできないが、このような考えはすべての学が空想にすぎず、芸術と科学は全く同じという思想に行きつく。

 それゆえ、独我論のような極端な観念論は支持されていない。だが、カントを肯定するにしろ、否定するにしろ、たとえ唯物論を支持する哲学者ですら、自然、すくなくとも探求の対象としての自然という概念が構成されたものであることを認める。その点では、素朴な自然主義(注)を取る自然科学者などとは大きく異なる。
(注)ここでは、自然主義とは、「自然は人間の意識から独立した客観的な実在で、自然に内在する客観的な自然法則を認識し、それを活用することが、真に正しい認識であり、実践である」とする考え方を意味する。

 二つの立場のどちらが正しいのかと問うのはあまり意味がない。哲学的な立場、根源的に存在について思索する者にとっては、哲学者が言うことが正しいとなる。しかし、自然科学的な研究をするうえでは、自然を「ありのままの存在」として捉えるか、それとも「構成された存在」と考えるかで違いはほとんどない。むしろ、素朴な自然主義、自然法則は意志から独立した客観的なものとした方が分かりやすいし、研究も悩むことなく進めることができる。ただ、量子論や熱統計物理の解釈や、生命の解釈など原理的な問題、科学の応用、科学と技術の関連に関する考察などでは、哲学的な見方が重要になる。その点で、哲学者の「自然」観は無意味な訳ではない。


(2020/3/1記)


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