☆ 理性と意志 ☆

井出 薫

 精神は理性と意志からなる。AIには理性に相当するものは存在するが、意志はない。そこが人間とAIの決定的な違いだ。こういう意見がある。ニーチェも「生命あるところ力への意志を見出す」と述べている。ニーチェが正しいとしても、力への意志がない者は生命ではないということが帰結するだけで、生命ではない者たとえばAIが意志をもたないということにはならない。とは言え、ニーチェが言わんとするところは、力への意志こそが生命を特徴づけるということだろう。ニーチェが現代に生きていたとして、AIに意志を見出したり、AIと人間を同一視したりすることは想像しがたい。しかし、理性と意志は本当に異なるのだろうか。

 理性と意志、特に意志を理解することは難しい。意志はしばしば自発性と結びつけられる。実践と認識において、認識はアルゴリズムに従う広義の計算だが、実践は意志に基づく自発的な活動だとされることがある。そして、そこにこそ、人間がAIやロボットと違うことの根拠があると考える者も少なくない。AIやロボットは人間の知的な行為、認識を含めて、人間よりもはるかに優れた成果を上げる。いまや、それは囲碁や将棋において名人を打ち負かす域に達しているし、パターン認識でも人間を遥かに凌ぐ。しかし、いかに進歩しても、AIやロボットは人間とは異質な存在に留まる。そこには意志がなく、ただアルゴリズムを表現したプログラムに従い機械的に動作しているだけだと考えられている。

 AIやロボットには生きる意欲も死の恐怖もない。だから、電源を切れば動かなくなるし、それに抵抗することもない。もちろん、ロボットに抵抗させるようにプログラムすることはできる。しかし、それはやはりアルゴリズムに従っているだけで意志があるわけではない。

 だが、これには異論がある。人も同じではないか。コンピュータのプログラムと等価な脳内のプログラムに従い行動しているだけで、意志などない。自由意志など思い込みにすぎない。あるいは、プログラムの中に自由意志の存在を信じ、生を意欲し死を恐れ回避しようとする行動が組み込まれているに過ぎない。つまり、自由意志や(自発的な)意欲などは幻想にすぎないという考えがある。

 この考えに明確な反論をすることは難しい。私は心を持ち、自由な意志があり、感情があり、単にプログラム表現されたアルゴリズムに従うだけではない。誰もがこう考える。だが、それは、そう考えること自体がプログラム化されているのだと指摘されると、論理的には反論ができない。だが、もちろん、そのような考えが正しいという証拠があるわけではない。だが、唯物論的な思想を持つ者は、コンピュータの電子回路と脳内のニューロンのネットワークとは等価であり、それゆえ人間の活動とAIやロボットの活動には量的な差異や特徴における差異があるとはいえ、本質的には等価だと考える。もし、それが正しいとすると、人間に理性とは質が違う意志が存在するのであれば、AIに意志を持たせることもできることになる。

 だが、このような考えは、世界には設計図があり、それに従ってあらゆるものが運動しているというドグマに基づいている。しかし、設計図など存在しない。設計図に相当するのはモデル・道具であり、それは対象そのもの、世界そのものとは解消できない差異を有する。それゆえ、理論的な認識を可能とする理性とは別に、実践の基盤である自由な意志という観点を導入することができる。そして、設計図を道具として構築した技術の産物、AIやロボットには意志がない、それゆえいかに理性的な機能と成果で人を上回ることになっても、人と同一な存在にはならない。こう考えることができる。

 ただし、注意する必要がある。意志という概念も、モデル・道具として存在する。つまり理性による理論認識の対象となる。だが、そのモデル・道具は明確に言葉で表現できるものではなく、いわば寓話としてのみ表現されるようなものになる。さもないと、それは独自の存在領域を持つ意志ではなく、理性とアルゴリズムに還元される存在となり、AIやロボットにも見出されるものとなる。だが、寓話としてのみ表現される意志なる存在を想定することが本当に正しいことかどうかは分からない。理性と意志は同じ根を持ち、人間もAI・ロボットも同じという可能性を完全に否定することはできない。


(2020/1/19記)


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