☆ 技術を拒否できるか ☆

井出 薫

 AI、量子コンピュータ、第5世代携帯電話、遺伝子操作など様々な新技術の導入が進んでいる。これらの技術を否定するつもりはない。新技術の導入により、今まではできなかったことができるようになり、私たちの行動の選択肢が広がる。

 しかし、原子力など新しい技術はしばしば社会に災厄をもたらす。それゆえ、新技術が登場した時に、それを拒否することができるか、これが大きな問題となる。

 技術は中立であり、問題は使い方にあるという考えがある。もし、この考えが正しいのであれば、技術を拒否することができる。だが、このような考えは疑わしい。技術の進化には社会的な背景があり、技術が自律的に進化する訳ではない。原爆は戦争という背景があった。コンピュータの普及には市場経済の発展に伴う経理処理の増大が密接に関連している。ハイデガーは技術の進化とその社会への浸透は避けがたい命運だという。技術の進化と社会への浸透に抗うことができないとは言えないが、それは決して容易ではない。また人々は拒否すべき時を知らず、いつしか技術は社会を支配し後戻りできなくなる。

 それは技術がすべてを決定するという技術決定論を意味するものではない。むしろ、人が、または社会が、技術を介して、人と社会つまり自分自身を束縛している。その意味では、技術はあくまでも道具、手段として存在する。

 しかし、どうして技術を介して自分自身を束縛することになるのか。人という種の生物学的特性がそれをもたらすのか。私たち人間は様々な道具を作り、使うという特徴を持つ。それは遺伝学的に継承されるものではないが、人が群れをなして暮らすことから、共同体を通じて遺伝的であるかのように後世に継承される。もし、技術の進化と普及が生物学的特性に従う事実ならば、教育訓練を通じて技術を対象化し、それを制御することが可能となろう。

 確かに、原始時代は、技術の発展と普及は生物学的特性を土台にしたものだったと考えてよい。しかし、それが組織だった巨大な技術へと進化したとき、それは単なる生物学的な特性を土台とするだけのものではなくなっている。それは単なる身体の延長という次元を超えたものとなっているからだ。私たちの視覚は遺伝子を直接見ることは出来ない。世界に広がるインターネットの全体像を把握することもできない。私たちは、ただディスプレイに現れる情報を利用することができるにすぎない。現代の技術は感覚はもとより、知性をも超えている。しかし、それでも、技術が自律的に進化する存在ではない以上、それを支える何かがある。だが、それが何かと聞かれれば、今のところ、不可視のシステムとでも答えるしかない。だが、システムとは何かと聞かれると答えに窮する。結局何も分かっていない。ただ、人の営みから生まれ、未だにそこに源泉が在りながら、人と社会を超えて機能する存在が、探求すべきものであることだけは分かる。だが、その正体を知ることは難しい。だからこそ、技術を拒否することは困難になる。なぜなら、何を、どう拒否すればよいのか、どうすれば拒否したことになるのか定かではないからだ。


(2020/1/13記)


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