☆ 哲学序説 ☆

井出 薫

 現代において、哲学は必要なのだろうか。物理現象は物理学が、生命現象は生物学が、合理的で、説得力があり、実用的な価値が高い形式で説明する。社会現象は自然現象のようには行かず、経済学者は物理学者ほど信用されてはいない。人工衛星を打ち上げるかどうかは政治家が決めるが、打ち上げることが決定されたら、あとは、人工衛星の構造と機能、発射速度などは物理学者や物理学を応用する技術者たちが決め、政治家が口を出すことはない。しかし、景気対策を取ることが決まり、経済学者が政策を提言しても、それを採用するかどうかは最終的には政治家や官僚が判断する。経済学者の意見はしばしば分かれ、また、予測が外れることは珍しくない。それゆえ、政治家が最終決定をし、責任を取る必要がある。しかしながら、経済の状況を分析し、政策を立案するうえで、経済学が有益であることは多くの者が認めているし、予測が外れることが多いにしても、物価変動の定性的な傾向などは経済学のモデルで合理的に説明できる。経済を巡っては哲学めいた議論が多く見受けられるが、哲学者に経済対策を求めても有意義な答えが返ることはなく、むしろ議論が拡散するだけに終わる。ハーバーマスに景気対策を尋ねるドイツの政治家はいない。

 こうしてみていくと、いまどき哲学に出番があるとは思えなくなる。しかし、いかに個別の学問が進歩しても、人間は哲学を捨てることはできない。物理学は人工衛星の作り方を教える。生物学は遺伝子操作や記憶の操作の仕方を教える。それをしたときに何が起きるかも教える。だが、それをなすべきかどうかを教えることはない。惨めな人生を送ってきたと嘆く男が「輝かしい人生を送ってきたように記憶を書き換えてくれ」と頼んできたとき、それに応じるべきかどうか、生物学は答えを与えない。原子力発電を推進するべきかどうか、物理学は核分裂や放射性物質について有意義な情報を提供するが、推進するべきかどうかの決定はできない。決断と、その決断を支える倫理は、哲学以外の学では答えることはできない。

 哲学が必要とされる、もう一つ理由がある。哲学以外の諸学には必ず理論の展開に当たり(大抵、暗黙理に)設定される前提がある。物理学ならば、時間と空間という枠組みの存在が欠かせない。自然の究極理論として期待される超弦理論などでは時空の誕生すら理論的に導くことができるとされているが、なぜ超弦理論が成り立つのか、と問われれば、それ以上に答えようがない。そもそも、弦というモデルそのものが時空という枠組み、それを支える幾何学的世界を前提としており、その前提そのものを問うことは物理学にはできない。どのような学でも説明には限界があり、どこかで、「理由は分からないが、とにかく、そうなっている」と答えるしかなくなる地点がある。だが、人間は、それで納得しない。それを煩悩やルサンチマンとみるか、人間の知の特質とみるかは別にして、人間はさらに問おうとする。若き日のウィトゲンシュタインはそれを疑似問題、無意味な問題として解消しようとした。だが、一時はそれに成功したと考えたが、やがて、その考えが間違っていることに気が付いた。とにかく、この問いを問い続けるという人間の在りようは、おそらく変えることができない。それゆえ、問いそのものを問うという特異性を有する哲学が不要になることはない。

 問いを問うという営みは様々な形態をとる。「存在(在る)とは何か」(アリストテレス、ハイデガーなど)、「なぜ人はそれを問うのか」(マルクス、ニーチェ、フロイトなど)、「問うとはどういうことか」(ヘーゲル、ウィトゲンシュタインなど)、「問うことの構造は何か」(カント、構造主義者など)、など多様な形態があり、それが多様な哲学へと繋がっている。そして、それは倫理と繋がっている。いずれにしろ、人間が人間である限り、哲学が消滅することはない。それがたとえ疑似問題の集積体にすぎないとしても。


(2020/1/2記)


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