☆ 資本の論理分析に向けて ☆

井出 薫

 世界は資本の論理に支配されている。中国は共産党が一党支配しているが、その内実は国家主義色の強い資本主義だと言ってよい。事実、株式の時価総額のベスト50を見ると、中国企業が米国企業についで多い。中国の国内政治体制は先進資本主義国と大きく異なっているとは言え、現代の資本主義体制の中で重要な地位を占めている。世界は、その政治体制の違いを超えて、資本主義体制が、それもグローバルな市場を土台とする世界資本主義へと向かっていると言えよう。それが多くの極めて多くの難題、貧富の格差、環境問題などを抱えているにもかかわらず、その拡大を止めることはできないように思える。つまり、資本主義の根幹をなす資本の論理が世界の隅々まで支配している。

 だが、資本の論理とは何だろうか。資本とはマルクスの定義を援用すれば、自己増殖する価値体となる。もちろん資本の働きとは人間の活動の所産にすぎない。人間を欠いて資本は存在しない。資本はその意味では抽象的な存在、概念にすぎない。それにも関わらず、資本家とは資本を担う者、労働者は労働を担う者として、資本と労働が、人を支配しているかのように現代社会に現れている。これを明確に示したのがマルクスで、資本は人間の活動の所産であると同時に(それ自身が、あたかもヘーゲルの概念のように)自律した存在であるかのように振舞う。ハイデガーは、技術は人間の活動、道具であると同時に、西洋近代以降の技術がむしろ人間を用立てられる存在へと転落させていると主張する。これは、基本的には、マルクスと同じ地平に立つ思想だと言ってよい。ただ、マルクスはこの逆転現象、人の活動の所産が人をむしろ支配する状況を共産主義革命で変革することができると考えたのに対して、ハイデガーはそのような楽観論に与しない。共産主義もまた、資本主義と同様、人を近代技術の支配下に置き、用立てられる存在へと転落させる体制に変わりはないと論じる。共産党が支配する国家資本主義体制の中国を、伝統的な共産主義者の視点から堕落した共産主義と捉える向きもあるが、ハイデガーの指摘が的中していると考えることもできる。そして、後者の解釈の方が的を射ている。

 資本は、マルクス経済学と対抗する近代経済学においては、事業を行うための資金、または貨幣(本稿では貨幣は「通貨」を意味する)を単位に数値化される生産手段や調達される労働力の量など、様々な意味を持つ。固定資本と流動資本などという区別は後者の立場だし、投資の資金などは前者の意味を持つ。ここで、マルクス経済学と近代経済学とでは資本の意味が大きく異なるように見えるが、そうではない。マルクスにおいても、資本は金融資本、生産資本、商品資本などという姿を現実において取るとされており、近代経済学の様々な資本概念と通じる。ただマルクスにおいては、新しい価値を生み出すのはもっぱら労働力であるとするところに特色がある。もっとも、このいわゆる労働価値説は、アダム・スミスやリカードがマルクスに先立ち唱えた説であり、近代経済学とマルクス経済学の決して交わることのない差異をなすものと考えることはできない。マルクス主義者にしろ、資本主義者にしろ、そこにある資本の概念は基本的に共通すると考えるべきだろう。

 では、今一度、資本とは何かを考えてみよう。資本とはまず貨幣(マネー)という形態を取り、その定量的な拡大を目指して、政治、経済、文化の各領域で、様々な制度を形成する土台として作用する存在だと言ってよい。また市場は貨幣とともにある。市場と貨幣は資本の持つ様々な顔の近接したあるいは表裏の関係にある資本の姿だと言ってよい。そして、貨幣と市場という姿が、他の姿を生み出すための核心となる。貨幣の増殖と市場の拡大、これが中核となりまた駆動力となり、社会の様々な分野で様々な活動が全体として(常に波乱要素を含みながらも)調和して資本主義という体制を安定的に形成する。その勢力の及ぶ範囲は経済だけではなく、政治、法、文化、イデオロギーを包含する。それらの領域はすべて貨幣と市場に支配されるわけではなく、独自の論理を持つ。しかし、資本主義が繁栄している場においては、資本の論理にあからさまに、又は間接的に統制されている。逆に言えば、これら様々な領域を統制する原理こそ、資本の論理だと言ってよい。

 だが、これだけでは抽象的、形式的な規定にすぎない。これを現実的に理解し解明するには詳細な分析が必要となる。貨幣と市場、その増殖と拡大という核心が、どのように政治、経済、文化、学と思想などを構成していくのか、そして構築された体系が如何にしてその核心である貨幣の増殖と市場の拡大を現実化するのか、それを解明することが欠かせない。そして、この試みこそ資本の論理分析なのだ。

 ここで、どのように始めればよいのか。学的な探求においては常に始まりをどこにするかが大切になる。資本の論理分析においてはまず貨幣の解明から始める。マルクスは商品から始めたが、商品とは売ることを目的として貨幣単位での価値つまり価格を有する労働生産物を意味する。それゆえ商品は貨幣を前提とするから貨幣の方がより始原的な存在と捉えるべきだろう。貨幣は二重の意味と役割を有する。計算合理性と黄金への欲望の二重性だ。計算合理性は合理的で安定的な体制を構築することを可能とし、黄金への欲望は体制の拡大の駆動力となる。それは人の行為であり道具でありながら、人の行為を支配し、人と人の組織を用立てられる存在へと駆り立てる。このあたりのことをよく分析し理解することが第一の課題となる。そして、次に続くのが技術だ。技術は単に生産手段の一部をなす存在に留まらない。技術は、貨幣と市場という核心が、巨大な資本主義体制を構築する手段として機能し、同時に、その体制とそこに属する者たちを技術そのものの一部とするという威力を有する。スマホを持ち歩き作業する者はスマホの一部にすらなっている。その背後では、原子力やグローバルなモバイルインターネット、遺伝子工学などの人の感覚でとらえられる自然の姿から遠く離れた、近代科学や数学と協同で機能する巨大で精緻な技術が控えている。そして、スマホのような身の回りに在る、手が届く存在としての技術も、原子力などのような遠い存在としての技術も、それぞれ違う経路を通って人を用立てる。この技術の機能が、資本の論理において重要な役割を果たす。情報技術がその典型であるように、そこでの技術は直接的に生産力、貨幣と市場の拡張をもたらすだけではなく、体制を構築し、維持する技術として世界を支配し、資本の論理を世界に貫徹させる。

 それゆえ、最初になるべきことは、貨幣の分析とそれを背景とする市場の解明であり、そして技術−古代以来の原初的な技術と、組織を形成するための技術を含む−の分析がそれに続く。この二つが最初の課題となる。だが、これだけでは肝心の貨幣の増殖と市場の拡大を可能とするもの、その土台となるものが分からない。ここまでは貨幣も市場も観念的に増殖・拡大する者として表象されるに過ぎない。

 ここで、次に現れるのが、労働力、土地や水域など自然の恵みを含む生産手段、全体を統制する存在としての技術、この3つであり、そこから貨幣の増殖、貨幣の資本としての現われを解明する契機が登場する。ここで、これらの契機はいずれも普遍的かつ不変的なものではなく変化するものであることが重要な点となる。そして、仕上げが、資本生産の具体的な手法としての、社会的なシステムの差異の創出とその活用だ。これはマルクスの資本論では剰余価値の生産として記述されている。ただ、マルクスは主として社会的なシステムの差異として権力関係の差異−それは労働搾取論に繋がるのだが−に着目しており、広く社会的なシステムの差異への展望を欠く。

 資本生産を可能とする社会的システムの差異には4つの形態がある。時間的な差異、空間的・地域的な差異、権力関係の差異、情報の差異、この4つだ。そして、これらの差異が創出され、あるいは予め在るのは、先に述べた、労働力、自然を含む生産手段、技術が普遍的でも不変的でもないということに基づく(注)。
(注)労働力、自然を含む生産手段、技術が普遍的でも、不変的でもないことは、所与の事実として考えるしかない。ただ、その背景となるもの、そこにある存在への眼差し(存在了解)については議論することができよう。

 4つの差異は決して完全に対等というわけではなく、時間的な差異の創出こそが、最も重要であり、時間的な差異の創出がうまく機能し、他の3つの差異を統制している状態が、資本が十全に機能し、資本主義が円滑に発展し社会が繁栄している状況と言える。それゆえ、時間的な差異の創出が如何にして可能となるかを捉えることが最も重要となる。そして、これが同時に最も難しい。空間的地域的な差異は気候、資源、土壌など自然の性質の違い、人口、賃金や財の料金の違い、社会的な特質などを想定すれば容易に理解される。権力関係の差異は雇用者と被雇用者、政治権力などを想像すればすぐにわかる。情報の差異は、情報量のばらつきや特許などを通じてやはり理解は難しくない。だが、時間的な差異がどこから来るのか、それを安定的に生み出すためには何が必要かを理解することは難しい。それゆえ、資本の論理分析において、時間的差異の創出と、それとその他の3つの差異との関連の解明は最も重きをなす分野となる。

 資本生産の土台が解明されると、その土台の上で、具体的な生産や流通などの経済の分析、経済と政治、法、文化との連関などが次の課題として現れる。ただし、具体的な課題を解明する段階に至ると、単に資本の論理分析という思想体系だけでは解決することができない問題がたくさん現れてくる。資本の論理分析は広い射程を持つ哲学的ともいえる学であるが、万能ではない。また、哲学を資本の論理分析の土台に上に据えることもできない。そのような考えは硬直した教条的マルクス主義の独断論に等しい閉鎖的で独裁的な思考へと陥ることになる。この点に注意しなくてはならない。

 なお、具体的な体系の概要は別稿において示すこととする。


(2019/12/8記)


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