井出 薫
唯物論とは、しばしば世界とは物質であり、精神はその産物にすぎないという思想のことだと考えられている。確かに、そういう意味で唯物論という言葉が使われることは多い。しかし、現代においては、それは常識に過ぎず、意味のある言明ではない。また、精神は物質の活動の産物だと言っても、どのように精神なるものが現れるのか誰も分かっていない。そもそも、物質という概念が曖昧で、物理学的な実在を意味することもあれば、抽象的な概念を意味することもある。カントはドイツ観念論の始祖とみなされるが、物質界の実在を否定したわけではなく、認識の対象が物自体ではなく現象にすぎないと言っただけで、実在としての物質を認める点では唯物論者とも言える。唯物論が意味ある思想であるためには、ただ物質が第一の存在だとか、世界は物質だと言っただけでは意味がない。 ハイデガーは、(マルクス主義者の)唯物論とは、世界が物質だということではなく、世界を労働生産物とみることだと指摘する。確かにマルクスの労働価値説は、労働生産物こそが社会を支えると語っている。ただ、労働生産物ではないモノ的存在者が多数存在することは自明で、ハイデガーの指摘は、唯物論における物質という概念は労働を通じて理解されると解釈するべきだろう。労働生産物以外の存在は自然であり、それは物質とか精神とか言うことには意味がない。ただ、物質的とか精神的とか言うことができるだけで。それ自身は自然という独自の存在と捉えるべきなのだ。 だが、ハイデガーの見方は、単純な「世界は物質である」という、しばしば「ただもの論」と揶揄される唯物論を批判し、唯物論の多様な姿を示したものではあるが、唯物論の真の意義を捉えているとは言えない。意義ある唯物論とは次のような思想を指す。「ヒトは、モノ的世界において、(知と、道具及び操作や加工の対象としてのモノの統一体としての)技術を通じて、世界を対象化し利用する。モノ的世界をモデル・道具を通じて拡大し宇宙というモノ的世界を概念的に構築する。科学は、このプロセスにおいて二次的・派生的に生まれたものであり、それは優れた知であるが、技術に優先するものではなく、技術=応用科学という解釈は誤りであり、むしろ科学=技術の応用という位置づけになる。」つまり、(意義ある)唯物論とは、カントと同様に、モノ的世界の実在性・優位性を認めながらも、それ自体は直接的に人間の視界に入ってくるものではないという思想だと解釈するべきなのだ。ただ、カントが悟性と理性による認識が現象を統制し世界を構築すると考えるのに対して、唯物論では、技術がモデル・道具を活用し、労働を通じて製作するもの、さらにそれをまたモデル・道具として使用して、労働過程の対象外に在るモノ的世界を理解しそのモデル・道具を形成するもの、これらを統合したものを世界と見る。それゆえ、理性を核とする観念論的なカントの世界像に対して、技術とモデル・道具を介してモノ的世界から構築された世界像が唯物論の世界となる。 カントが示した通り、いかなる手段をもってしても、私たちは対象そのものにはなり得ない。エンゲルスは、アリザリンを作ることに成功すれば、物自体としてのアリザリンは消滅すると論じた。しかし、それは技術とモデル・道具を過大視し、モデル・道具と対象の間に存続する解消不可能な差異を看過するものだった。真の唯物論は、モノ的世界を承認しながら、対象とモデル・道具の解消できない差異の存在を認める。しかし、その差異は、技術を通じて、その姿を変え、モデル・道具は拡大していく。それがまた技術の進歩、世界像の変化をもたらす。その意味で、唯物論とは、モノ的世界、技術と労働、モデル・道具論を包括的に論じた思想だと言ってよい。 了
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