井出 薫
存在と認識の関係は常に哲学の第一問題だった。物理学や天文学、生物学などで私たちは世界を様々に認識する。だが、その認識は正しいのか、それは世界そのもの、つまり存在と一致しているのか、一致しているとしてそれを保証するものは何か、こういう問題を偉大な哲学者たちは常に念頭においてその哲学を展開した。 デカルトはすべてを疑い、認識の根底に疑う私(主体)を置いた。だが、私だけでは何も生まれない。デカルトは神と神が創造した世界を天下り的に導入し、存在と認識の一致を結論付ける。デカルトの哲学は、キリスト教を核とする伝統的な中世思想から、主体を中心とした近代的な思想への転換を促すことに貢献した。だが、存在と認識に関する議論は不徹底で、最初に述べたような問題を解決したとは到底言い難い。 ヘーゲルは、存在と思惟はもともと同一で、存在と思惟を包括する概念の弁証的展開が世界(存在)そのものであると論じる。これにより、存在と認識の一致は保証される。存在の認識とは、その本質において自己認識でああるから、認識を深めていけば、少なくとも原理的には存在と認識は一致する。私は私を知る、そして知ることこそ私そのものなのだという訳だ。ヘーゲルが正しければ、問題はすべて解決されたことになる。 ヘーゲルの考えは、多くの哲学者を魅了した。ヘーゲルの観念論を厳しく批判したマルクスも、自分がヘーゲルの弟子であることを資本論の序文で告白している。しかし魅力的であることと正しいこととは違う。人間世界における認識は、外界との相互作用を通じて得られる、脳の活動の所産に過ぎず、それは世界のほんの一部でしかない。それは人間という生物種の特性や社会環境に依存するものであり、世界そのものではない。そして、人間は広大な世界のほんの一部であり、思惟はその人間の諸活動の一領域に過ぎない。確かに、人間の認識の対象は宇宙全体をも含んでいる。だが、それでも、それは世界においては取るに足らない一部分でしかない。 存在と認識との間には常に差異があり、それは人間の認識が深まることで解消されるものではない。だが、ヘーゲル哲学の構図が成り立ち、現代において巨大な影響力を有するものがある。それは(通貨という意味での)貨幣だ。貨幣はスミスやリカードなどの古典派経済学、マルクスなどにおいては、可視的な労働生産物つまり金銀などの貴金属であることが想定されていた。銀行券などの紙幣はすでにマルクスの時代には広く流通していたが、それでも金や銀の代理物であり、その価値は金や銀と交換できることで保証されると考えられた。ここでは、紙幣は貴金属としての貨幣と本質的に解消できない差異を有するものと捉えられる。貴金属と紙幣には素材においても、社会的な位置づけにおいても、本質的に差異がある。貴金属の価値は不滅だが、紙幣は信認を失えばただ紙くずになる。 しかし、現代は違う。貨幣(通貨)はもはや貴金属ではない。銀行券ですらない。貨幣は数字に過ぎない。日銀がデフレ対策として莫大な量の国債を市中銀行から買い入れている。だが、そこには貴金属は言うまでもなく、銀行券の移動すらない。たとえば日銀が三菱UFJ銀行から百億円の国債を購入したとき何が起きるだろう。日銀が日銀に置かれた三菱UFJ銀行の口座に百億円という数字を書き込むだけだ。そして、日銀のバランスシートでは、負債の部に、三菱UFJ銀行の預金口座の残高の増分百億円が追加され、資産の部に国債百億円が追加される。三菱UFJ銀行のバランスシートでは、資産の部で、現預金が百億円増え、(譲渡益を無視すれば)国債が百億円減る。すべてが数字の修正、追記に過ぎず、貴金属や紙幣などモノの流れは一切ない。このように貨幣はモノではなく、数字つまり人間がそれと認識する観念的な存在物に過ぎない。貨幣は存在として思惟の対象であり、同時に思惟の結果でもある。だから、貨幣に関して言えば、存在と認識は一致する。まさにヘーゲル的世界が、経済においては支配的な地位を占めながら存在すると言ってよい。 しかし、その割には、私たちは貨幣をうまくコントロールできていない。コントロールできないどころか、貨幣に翻弄され、リーマンショックのように、ときに経済的な破綻を招く。貨幣は支配的な存在ではあるが、それが観念的であるがゆえに、それ自身では価値がない。モノとしての商品やサービスを求める生身の人間が介在してこそ初めて貨幣は現実的な価値を持つ。支配的であるが同時に寄生的であることが貨幣の本質をなす。 貨幣はヘーゲル的な存在と認識が一致する世界で、市場経済において大きな役割を果たす。しかし、それ自身で自足することはなく、モノ的な外部を必要とする。貨幣は自己充足することはない。およそすべての観念的な存在、学などはすべて同じで自己充足することはない。優れた認識は存在の本質的な面を明らかにする。だが、それでも、貨幣の存在が示す通り、モノ的な外部を不可欠とするという点で、存在と認識にはけっして解消できない差異が残る。 了
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