☆ 資本主義の終わり ☆

井出 薫

 景気後退が懸念されるとして、欧州中銀が金融緩和の方針を発表した。経済が好調な米国でも金融緩和が行われている。日本でも2、3年でインフレ目標を達成することができるとして2013年に始まった異次元の量的緩和が未だに続いている。続くどころか、さらなる緩和が必要という意見もある。いずれにしろ、その目標は金利の引き下げだ。

 金利がほとんどゼロになってから久しい。金利が低いことが直ちに資本主義の危機を意味するわけではない。しかし、金利を引き下げないと、景気が維持できなくなっていることは紛れもない事実で、資本主義が曲がり角に差し掛かっていることは否定できない。

 資本主義の崩壊を予言した思想家に、マルクスとシュムペーターがいる。マルクスは、資本を可変資本(労働力)と不変資本(生産手段)からなると考える。そして、新しい価値を生み出すのは労働力だけで、生産手段は生産過程で最終商品に価値を転化するだけで新しい価値を生まない。それゆえ、資本家の利潤・利子・地代は労働力からのみ生じる(だから、マルクスは労働力を可変資本と呼ぶ)。資本主義の発展とともに、生産力は増大する。生産力の増大は可変資本に対する不変資本の比率が増加することで起きる。そのため、資本主義では利潤率は長期的に低下する。それはこういう理屈だ。労働力が必要労働時間を超えて労働することで生み出される剰余価値(それは現実の資本主義社会では利潤、利子、地代に分かれる)をm、可変資本をv、不変資本をcとすると、利潤率は、利子と地代を無視すると、m/(c+v)で表現される。これを変形すると(m/v)/(1+(c/v))となるが、c/vが増加することで、(m/vが一定であれば)利潤率が低下することが容易にわかる(分母が大きくなるため)。それにより、資本主義の発展とともに、資本家は利潤を得るために、以前より大きな資本を投じなくてはならなくなる。その結果、小さな資本は大資本に飲み込まれていく。だが、それでも利潤率が低下していくことに変わりはなく、資本主義は行き詰る。

 一方、シュムペーターは、新技術や新サービスの開発、生産システムや流通システムの改革などのイノベーションがない限り、市場競争の下で利潤は低下し、やがて利潤を得られなくなると考える。イノベーションに成功した企業は生き残り、大きな利潤を手にするが、他の企業もそのイノベーションを流用することで、以前と同じように利潤を得ることが難しくなる。こうしてイノベーションを継続することで資本主義は生き延びていくが、企業の規模が大きくなり組織は官僚化し、いずれイノベーションの種が尽きる。そのとき資本主義は終わりを迎える。

 マルクスの思想は労働価値説(商品の価値は、生産に必要な社会的平均労働時間だとする考え)に立脚しているが、労働価値説には難点が多く、マルクスの主張をそのまま受け入れることは出来ない。マルクスの主張が正しいとすると、生産活動に占める労働力の割合が下がると利潤が減ることになるが、現実と合致しない。リストラに成功して生産性の向上に成功した企業は大きな利潤を獲得する。マルクスの利潤率低下傾向説は、個々の企業の利潤に関する理論ではなく、資本主義社会全体に関する理論なのだとしてマルクスを擁護することはできなくはない。しかし、国家単位で考えても、生産性を向上させた国は経済成長を加速しておりマルクスの主張とは合致しない。世界全体で考えても、生産性の向上は経済成長に繋がる。資本主義の下では、経済成長には利潤の獲得が欠かせないから、生産性の向上が利潤率を下げる要因になるとは言えない。こうして、マルクスの考えには疑問符が付く。シュムペーターの主張にも難点がある。20世紀終盤から、情報産業や、遺伝子関連技術を応用した産業分野などでは、大きなイノベーションが頻繁に発生している。それゆえ、シュムペーターが資本主義の衰退を予言した時代と比較して、現代がイノベーション力が低下した時代とは言えない。

 マルクスもシュムペーターも、その理論は正しいとは言えない。だが、低金利の継続は、彼らの理論の正しさを裏打ちしているようにも思える。では、何が起きているのだろうか。おそらく経済成長の限界に差し掛かっている。それはマルクスが考えたように、資本主義という生産関係が生産力の頸木になったことによるものではない。マルクスは資本主義が崩壊した後に誕生する共産主義では、生産力の発展、富の蓄積、つまり経済成長は資本主義時代を超えて拡大すると考えた。だが、それは正しくない。たとえ共産主義が誕生しても、経済成長は鈍化し、成長を求めるのであれば、それを支えるために金融緩和とは違う形で何らかの施策が必要となる。また、イノベーションが継続、拡大しても、経済成長は続かない。

 物理的には、資源、環境が限界に近付いている。それでも、発展途上国の貧しい人々の生活向上のために生産拡大は欠かせない。それゆえ、先進国の人々は簡素でモノを大量に消費しない生活に切り替える必要がある。それが不可欠であることは地球温暖化の問題で容易にわかるだろう。70億を超えるという世界の人々が等しく米国や産油国の大資産家のような生活はできない。そんなことをしたら資源は瞬く間に枯渇し、地球は人間を含め多くの現存の種が生息困難な環境になる。また精神的な面でも限界がきている。人間の欲望は無限だと言われることがあるが、そんなことはない。三千坪の土地に千坪の家を建てて暮らしたいだろうか。そんな広い家は要らないし、そんな広い家は維持が大変で住み心地もよくない。そういう家を欲しがる者は自分が大富豪であるということを自慢したいだけだ。資産が1兆円を超える者がいる。羨ましいだろうか、自分もそうなりたいだろうか。凄いとは思うが、別に1兆円も資産があっても仕方がないという者がほとんどだろう。経営者や投資家として優れた才覚を持つ者以外には、莫大な資産の使い道はない。また、人間はいずれ死ぬ。あの世にお金を持っていくことはできない。遺言を残したところで、死後にその資産がどう使われるかを支配することはできないし、できたとしても死んだ者には役立たない。欲望が無限に思われるのは、貧しいうちだけで、ある程度の収入と資産ができれば富への欲望は著しく減退する。あとは趣味と見栄だけがそれをさらに増大させる原動力となるが、人は所詮死すべき存在であることを悟れば、それも続かない。

 このように、物質的にも、精神的にも、経済成長には限界がある。途上国ではまだ成長は続く。政治が安定し、適切な経済政策と先進国の支援があれば、実際、大きく成長することができるだろう。そして、人々を貧困から救うために成長は欠かせない。しかし、先進国では、(容易ではないが)富の公正な分配を実現することができれば、もはや成長は不可欠ではない。GDPが伸びなくとも、技術の進歩で生活の質は改善する。パソコンやスマホ、テレビなどが典型的な事例で、同じ価格で、昔よりずっと性能がよく長持ちする製品を手に入れることができる。GDPが拡大せずとも、人々の暮らしはよくなる。そして、そのことを人々は理解し始めている。事実、シェアリングエコノミーの思想に、その萌芽をみることができる。さらに、途上国も経済発展に成功した暁には同じことが起きる。

 だが、すべての財やサービス、労働力が商品化され、貨幣換算でその価値が評価され、その価値の増殖が経済活動の原動力となる資本主義では、GDPなど経済的指標において成長が止まった世界を受け入れることはできないだろう。それゆえ、資本主義はどのようなプロセスを経るかは分からないが、いずれ衰退し新しい体制へと移行することになろう。それはマルクスが予言するようなプロレタリア革命を経た共産主義ではない。しかし、貨幣換算できない生活の質の向上や他者の幸福が、各人の活動の目標となり、又、社会的な評価の基準となるような社会、人々が経済的な富に執着しなくなるような社会、つまり自律した個人から構成される共産主義的な社会が実現するのではないだろうか。いますぐには、資本主義が終わることはない。しかし超低金利の継続と人々の意識の変化は資本主義の終わりの序章のように思われる。


(2019/9/16記)


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