☆ 現代技術と存在(覚書) ☆

井出 薫

 ハイデガーは、技術を、存在を露にすることと表現した。特に、現代の技術は、存在を挑発し、エネルギーを渡すことを強要するものであり、そこでは、人も道具も用立てられ、集立されているとハイデガーは説く。

 ハイデガーの技術論は難解だが、技術が、人の知と技(それを支える書物や訓練組織などを含む)、道具、対象(存在)という構図を有していることから、妥当な解釈だと言ってよい。そこには、存在との関わりの特徴が表現されている。畑、風車、ダム、自動車、発電所などは、決して、自然のままでは存在することはない。しかし、自然の中にその可能性が潜んでいる。無からは何も生まれないからだ。

 だが、現代技術の持つ挑発的性格が何か、それが何により促されるのか、という点をハイデガーは詳しく説明していない。技術の産物は自然状態では存在せず、人の手が加わることで初めて存在する。だが、手が加わるとは言え、昔ながらの手法で行われる穀物の栽培、森林の植樹と伐採などは、自然のありのままの姿をなぞり、また、その現場で、対象の自然な成長を促す、見守るという性格が強い。それに対して、機械が大規模に導入された農場は機械工場とほぼ等しい。そこでは、人、道具、対象(存在)という素朴な図式はもはや通用しない。風車と発電所の違いも同様の視点で捉えることができる。自然の風をそのままの姿形で受入れ、生活に役立せることは、巨大な発電所とは明確に一線を画す。そこには発電所のような自然から遠く離れたモノは存在しない。

 現代の技術を支えるものは何か、古代ギリシャ以来の技術との解消しがたい差異は何に拠るものなのだろうか。古今東西、自然には設計図があり、その設計図を手に入れることで自然を支配することができるという根強い考え方がある。設計図が現実化することは宿命、命運などと表現され、現代では自然法則の必然性などという概念へと繋がっている。しかしながら、西洋近代以前は、この設計図は人知では窺い知れない神など超越者が作るものとされ、それを知ることは常人には不可能で、呪術などでそこに介在することだけが可能だとされていた。しかし、近代科学、特に物理学の革新を通じて、科学により、設計図を手に入れることができるという思想が有力になる。触れることの許されないものとして、畏敬の念をもって扱われていた設計図は、今や人間の知性で科学により発見することができるものとなった。実証主義、マルクス主義という19世紀から20世紀前半を代表する哲学思想は、資本主義と産業の発展と共に、この人々の考え方の変化をその背景に持つ。

 そして、設計図を発見するという使命を担うことになった科学と技術が結びつくことになる。そもそも設計図とは技術の道具であったから、それは当然の帰結だと言えよう(注1)(注2)。ここで、技術と科学が結合し、さらに資本主義の興隆を背景として、技術は科学技術という様相を呈することになる。
(注1)ハイデガーは、技術を科学の応用ではなく、むしろ科学を技術の応用と捉えることが可能であることを示唆している。これは、設計図を制作するという技術にとって極めて重要な要素を学的な認識へと応用することで近代科学が誕生したと解釈することで、理解できる。ただし、科学と技術の関係は、どちらが先かという問題ではなく、相互に連関しながら共に変化してきたとみる必要がある。
(注2)設計図は、技術を伝達する、再利用するなどの目的で、技術には欠かせない。楽譜を書くことが音楽に不可欠であることは、この一例であると言えよう。そして、設計図が合理的で分かりやすく、誤りを避けることができるためには、それが数学(数と幾何)的に表現されていることが望まれる。そして、事実そのようになっている。この数学的な設計図という発想が知的な探求に応用され、数学を駆使する合理的かつ普遍的な科学が近代以降、発展したと言えるかもしれない。

 隠された設計図を科学により発見することができるということ、さらに設計図を使って様々なモノを作り出すことができるようになったことで、人は超越者に取って代わる存在へと昇格する。物理法則そのものを人間は変えることができないという点で、人間が作る設計図には限界がある。だがそれでも、工夫することで様々な設計図を作り、それを実現することが可能となる(それは「工学」と呼ばれる)。存在は畏怖すべき対象から、人間が支配する物質界へと変化する。存在そのものには価値はなく、価値は常に人間が与える。スミスやリカード、マルクスなどの労働価値説は、この変貌した思想の一つの現れと見てよい。もちろん近代以前の技術と現代技術との間には連続性がある。だが、人が科学で設計図を手に入れ、対象を自由に操作できるという観念とその成功は、資本主義の興隆と手を携えて、技術を、存在を挑発し収奪するものへと変貌させた。そして、近代化とはまさにこのプロセスを核にしたものだと言ってもよい。(注3)
(注3)このプロセスにおいて、人もまた科学的及び技術的に操作可能な対象とみなされるようになる。だが、そのことは必ずしも非人道的なことではなく、自由で平等な個人という思想が確立し、民主制や人権思想が広がる契機になったとも言える。

 しかしながら、ここには大きな錯覚があった。人間が認識するのは、存在を運命づける設計図ではない。人間が認識する者はモデル・道具であり、対象との間に解消できない差異を持つ存在でしかない。それゆえ、技術はしばしば期待に反し、予期せぬ事故や自然と社会の破壊を引き起こす。それは人々を驚かせ、嘆かせるが、人が生み出す科学と技術の限界から当然に帰結することに過ぎない。それを忘れることで、人は人とその社会を、また自然を破壊し、存在の尊厳を毀損する。確かに、技術の進歩は多くの成果を生みだし、人々を豊かにした。だが、いくら進歩しているように見えても、技術には限界があり、また人は技術を適切に制御することができない。なぜなら、対象(存在)とモデル・道具の間には解消できない差異があり、それゆえ人はすべてを制御することができないからだ。それにより、人は絶えずモノの反撃に遭遇し、技術に支配されるようになる。ここにこそ、現代世界の最大の問題点が潜んでいると思われる。(注4)
(注4)そもそも対象(存在)に設計図など存在しない。ただ、対象を利用するために、人が技術において設計図なる道具を使用するに過ぎない。そして、その設計図は、対象との関りにおいて人が見出すモデル・道具の一つに過ぎず、存在そのものとは異なる。人間社会には、ただ一つの最高の理想的な状態があり、人はそれを目指しているとする思想が多く存在する。これは、人間社会と歴史にはその土台として設計図があり、それを人が認識し適切に使用することで理想状態が実現されるという思想に基づく。しかし、ここで述べているとおり、それは正しいとは言えず、また成功することもない。


(R1/8/18記)


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