井出 薫
存在(者)と実在(者)は違う。ゴリラは実在するが、ゴジラは実在しない。ゴジラは、ただ映画、脚本などにおいて存在するに過ぎない。 では、宇宙は実在するだろうか。「当たり前だ、宇宙が実在しないならば、宇宙の一部である地球、そこに生きる人間も実在しないことになる。」多くの者はこう考える。だが、本当だろうか。 現代物理学が教えるところによると、宇宙は138億年前にインフレーションとビックバンで誕生し、その後、膨張し続けている。観測によると現時点では加速膨張していると推測される。さて、138億年前のビッグバンは実在するのだろうか。実在するとして、どこに実在するのだろうか。宇宙は無数存在し、その中の一つがちょうどビックバンの最中だなどという理論もあるが信憑性はない、しかもそれを観測することはできない。つまり、ビックバンは物理学の理論の中にしか存在しない。それを実在の要素として解釈することには疑問がある。さらに、誕生から有限の時間しか経過していないこと、真空中の光速よりも早く情報とエネルギーを伝達することが原理的に不可能であることから、人間が観測可能な範囲は原理的に宇宙の一部に限定され、その外部は理論的な構築物に過ぎない。この原理的に観測不可能な空間を実在すると考えることにも疑問がある。 宇宙の原点であるインフレーションやビックバンに限らず、一般論として、過去を実在すると考えることは間違いではないだろうか。だが、過去は実在しないとするならば、実在者と単なる存在者を区別することはできなくなるように思われる。なぜなら、実在すると主張できるためには、少なくとも、有限の時間継続して実在していることが不可欠だからだ。一瞬しか存在せず、二度と現れることがない存在者は実在するとは言えず、幻想に過ぎないと判断される。だが、有限の時間継続して実在したと言えるためには、過去が実在していることが不可欠の要件と言えよう。ゴジラの映画が公開された後、一瞬、本物に見えるゴジラが国会議事堂の前に現れ、すぐに消え二度と現れないとしたとき、(映画の中で継続的に登場していても)ゴジラは実在せず、国会議事堂前の本物めいたゴジラは幻想か誰かの悪戯だと判断される。有限の時間継続的に実際に存在し、それゆえ実在すると判断するためには、過去の事象を実在の一部と解釈する必要がある。それゆえ、過去を実在しないと安易に判断することはできない。 それでは、ビックバンは実在すると考えるべきなのだろうか。過去現在未来をすべて見通す目を持った存在があるとしたら、その存在者からはビックバンは実在することになるだろう。だが、そのような存在者を人間は実在者として把握することはできず、観念的な存在者として想起するしかない。それでは、過去を、あるいは宇宙を実在として捉える根拠とはならない。 「ここでの議論は、存在および実在を専ら人間の認識との関係において論じている。だから袋小路に陥る。実在とは客観的なものであり、人間の認識とは無関係だ。宇宙は人間が認識しようとしまいと関係なく、客観的に実在する。」徹底的な唯物論者あるいは自然主義者ならばこう論じるかもしれない。この考え方は哲学ではあまり人気がないが、現代人の常識的な考え方に通じる。それゆえ、この常識を基に議論すべきだという主張もあながち無意味とは言えない。だが、この唯物論的な思想には難点がある。最初に示したとおり、実在者は存在者の一部とみなされる。ゴリラは実在者という存在様式を有する存在者、ゴジラは実在者という存在様式を有しない存在者、つまり実在者は存在者の一部だということになる。だが実在を人間の認識とは独立した何かだとするならば、実在は、存在よりも広い射程を持つことになる。なぜなら、人間の認識とは独立した何かが実在し、たとえばそれが宇宙であるとするならば、人間の認識においてのみ現れる存在者よりも、実在者の方がより大きな集合ということになるからだ。だが、そうなると、ゴジラも実在者と解釈しなくてはならない。だが、これは明らかに私たちの直観に反する。 存在と実在を明確に区別できる概念と考えるから、このような矛盾めいたことが生じる。存在も実在も言葉であり、その使用の様態により意味するものが異なってくると考えれば何も問題はないと指摘する者もいるだろう。ウィトゲンシュタインの信奉者ならば、こう答えるに違いない。だが、ゴジラとゴリラはその存在性格が全く異なることを子どもでも理解する。それゆえ、存在と実在は、哲学的に厳密に説明することは難しくとも、何らかの境界線があると思料される。つまり言葉の使用様態の問題に帰着させることで問題が解消されるわけではない。 宇宙は実在するのか?この答えが自明であるかのように思える問題に、意外にも?解決しがたい困難が隠されている。そして、ここにこそ、哲学の存在意義があるのかもしれない。 了
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