☆ 技術の支配 ☆

井出 薫

 電車に乗車し周囲を見渡すと、多くの客がスマホを操作し、その画面に見入っている。このような風景は21世紀に入るまで想像も付かなかった。この情景は皆が望んだものではない。むしろ、誰も望まなかった。ところが、それが普及すると、誰もがそれを手放せなくなる。そして、5年前には、スマホなど自分には不要で、使う気もないと断言していた者までスマホを持ち歩いている。実は、筆者もそう言っていた一人だが、今ではスマホなしでは暮らせない。私たちはスマホを使っていると言うよりも、むしろ使われている。

 技術とは、人が何らかの目的を遂行するための知や道具、それらが体系化されたシステムを意味する。つまり、技術は、あくまで人が何らかの目的のために生み出し、使うものであり、人を超えて存在するものではない。ところが、その技術が人を支配する。なぜ、そうなるのだろう。マルクス主義者ならば、それは賃金労働者の搾取で成立している資本主義だからだという説明をするかもしれない。マルクスは、機械は人間の自然に対する勝利だが、資本主義的に使用される限りでは労働者に敵対すると論じている。これが本当ならば、資本主義を解体すれば、人は技術に支配されることはなくなり、主体的にそれを作り、使うようになるということになる。だが、そうは思えない。技術の支配はもっぱら資本主義によるものではなく、むしろ、時代を超えた人と社会の在り方に基づく。その理由は少なくとも3つある。

 人は道具を使う動物で、道具により、その身体的な限界を超えて様々なことを成し遂げる。眼鏡や補聴器で視聴覚力を補正、強化し、杖やピッケルを使って様々な場所に行く。望遠鏡や顕微鏡などの進んだ技術を使えば、生得的な能力だけでは及びもつかない世界を垣間見ることができる。すべての生命体は生存に適した場所を好む。技術が人に、生存に適した環境をもたらすのであれば、人はそれを使う。そして、それが日常化し人々がその存在を暗黙理に前提とするようになった時、それを失うことで人は狼狽えパニックに陥る。眼鏡がないと安心して歩くことができない。現代社会は電気がないと何もできない。スマホがないと他人と連絡を取ったり、スケジュールを確認したりすることができない。道具を作り、使い、文明を生み出す能力を持つ人の自然的性格そのものに、技術に支配される要因が潜んでいる。

 だが、人の自然的な性格だけが、技術支配の要因だとしたら、技術の支配力は大したものにはならなかった。技術の支配が強固なものになった背景には、人が高度な社会性を持つことがある。江戸時代の技術では、全国規模の選挙制度を土台とする議会制民主主義は成立しない。選挙の日程や選挙結果を全国津々浦々に周知するには膨大な時間と労力を要し、議会制民主主義などは成り立ちえないからだ。多くの社会制度や産業活動は、一定水準の技術を前提とする。また、逆に、社会制度や産業活動が、新しい技術を生み出し、それを普及発展させる。制度や産業と技術が複雑に絡み合って、社会は維持され、また時間とともに変容していく。産業と技術の高度化は必ず社会を拡大し、巨大化した社会の中で、人はますます世界を見通すことが困難になる。民主化が進み、教育制度が充実し、表現の自由が拡大し、情報技術が進歩しても、人の知的、身体的な能力には限界があり、それを補完する高機能・高精度の情報機器を駆使しても巨大化する社会には追いつかない。このような人の社会の特質から、人はどうしても技術に支配されることになる。それは資本主義だからではなく、人間社会の本質に属する。

 さらに、技術においては、知に対してモノが優位に立つということを、人が技術に支配される要因として挙げる必要がある。誰もが使っているスマホ、だが、その動作原理すべてを説明できる者はいない。ソフトウェアの専門家はソフトウェアしか分からないし、電池の専門家は電池のことしかわからない。全体の設計者は、建築における意匠設計と同じで、全体の構造と動作しか知らず、細部のことは分かっていない。部品のことは部品の専門家しか分からない。どんなに信頼性を高める努力をしても、ハードウェアには不良品が混じるし、いずれは故障する。ソフトウェアからバグを完全に除去することはできない。アプリケーションの開発者はOSのことを熟知しているわけではなく、しばしばOSがアプリの意図に反した挙動をすることで不具合が起きる。また、OSの開発者はどのようなアプリがインストールされるか事前に分からないから、しばしばアプリとOSの間のやり取りで不具合や処理能力不足を招く。19世紀以降、科学の技術への応用が進み、現代人はしばしば理論=知がモノを支配していると早合点するが、それは違う。様々な技術を開発、運用する者が身に染みてわかっているように、あらゆる技術は、理論を使うにしても、常に現場で試行錯誤することで初めて現実的な技術になる。極めて重要とは言え、理論は手段の一つに過ぎない。技術が高度化することで、技術は細分化され、ますます全体を見通すことが難しくなる。そこで全体を統一するのは知ではなく、モノになる。人工衛星というモノ、スマホというモノが期待通り動作していることで、私たちは技術の妥当性を確信する。確かに、技術の進歩で信頼性が上がり、故障や不具合は減少してきている。だが、それは知が進歩したというよりも、モノが蓄積され細分化され、それに伴いデータが大量に集まったことによるところが大きい。知がモノを支配するのではなく、モノが知を支配する。そこから、何らかのモノとして現れる技術が、知により合理的な行為を遂行する人を支配することになる。

 技術が人を支配するのは、人の自然的性格、人の社会性、技術におけるモノの知の対する優位性に起因している。このうち、しばしば見落とされる、(だからこそ重要な)モノの優位性について、徹底的に考察する必要がある。現代においては、ここにこそ技術支配の第一の要因があると考えられるからだ。


(R1/7/15記)


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