☆ 科学と似非科学 ☆

井出 薫

 科学と似非科学の境界を明確に定めることは難しい。占星術を信じる者は非科学的と言われるが、非科学的である根拠を示すことは容易ではない。ダーウィンと同時期、自然淘汰による進化論を独自に提唱したウォレスは霊の存在を信じていたし、コンピュータサイエンスの父と称されるチューリングも霊能力を信じ、その存在が人間と機械の違いだと論じている。現代でも、霊能力など不思議な力の存在を信じる者は少なくない。また信じるところまではいかなくとも、そのような力が存在することもありえると考える者は珍しくない。彼と彼女たちの考えを明確に反駁し、霊能力などは似非科学であることを証明することは難しい。宇宙は4次元時空ではなく、5次元であり、この5番目の次元を通って無限の彼方にいる宇宙人と交信することができるなどという理論は、おそらく、怪しいと感じても、それが著名な科学者が提唱しているとしたら、多くの者が信じる可能性がある。

 科学と似非科学の境界を明らかにしようと、論理実証主義や分析哲学の潮流に属する多くの哲学者が様々な試みをなしてきた。だが、成功した者はおらず、境界線など引くことは出来ないと考える者が増えている。もちろん、そのことは境界線を引くことが不可能であることを論証する訳ではない。私たちはまだ十分に賢くはなく、そのために科学と似非科学を見分ける術を発見できていないだけだと考えることは出来る。

 しかし、そもそも科学とは何だろう。自然や社会を観察し、あるいは実験し、その中から、客観的で普遍的な法則を発見し、法則に基づき未来を予測し、過去と現在を説明する。そういう試みのことを科学と言う。つまり、科学とは社会的な営みの一つであり、決して、そこから独立した特権的な存在ではない。科学は科学理論と等価ではない。科学者、科学理論、その応用、社会の科学への見方、そしてそれらの歴史的な変遷などトータルなものとして存在している。ところが、しばしば科学は科学理論と同一視され、その結果、科学そのものが客観的かつ普遍的なものとみなされ、科学と似非科学の境界も客観的なものと誤解される。

 多様な存在を包含する科学の現実を直視すれば、科学と似非科学の境界は多分に恣意的で、時代とともに変化するものだということを認めることができる。常に、科学と似非科学の境界線は暫定的なものに留まる。しかし、それでは科学と似非科学の境界線は全く恣意的なもので、各人が自分の思想信条に基づき恣意的に定めることができるのだろうか。それは違う。科学が社会の営みであることから、科学が科学として承認されるには社会的なコンセンサスが必要となる。社会的なコンセンサスが間違っていることはある。その意味では、科学と称しているものが似非科学であることはある。しかし、現代のように科学的な知見が整備されている時代においては、コンセンサスをかなりの程度で信用することができる。怪しげな自称超能力者が長きに亘って人々の信用を勝ち取るということはまずない。また、現代において、科学は、生活と産業の各場面で使用される多くの技術と深い関りを持っており、そこでの成功が科学の信憑性を高める。これらのことから、科学と似非科学の境界線は大雑把なもの、例外を多く含むものではあるが、事実上、存在していると言ってよい。ただ、それは絶対的なものでも確実なものでもない。そして、明確に言葉で定義することができるものでもない。ただ、私たちの思考や行動を緩やかに規制する。


(R1/7/7記)


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