☆ 「私の身体」とは? ☆

井出 薫

 「私の身体」という表現はよく使われるが、意外と奥が深い。「私のスマホ」という表現では、スマホは私の所有物であり、私という主体がスマホという客体を所有していることを意味する。「私の身体」も同じで、私という主体が身体という客体を所有していることを意味するのだろうか。そういう風に解釈することもできなくはない。事実、洋の東西を問わず、古代には、霊魂が身体に宿り、身体を支配するという思想が広く支持されていた。しかし現代は違う。たとえ不滅の霊魂が実在するとしても、生きている間は霊魂と身体は一体化されており分離は出来ない。それゆえ主体と客体という関係で「私」と「身体」を捉えることはできない。これが現代哲学の共通の理解と言ってよい。

 では、どう考えればよいのか。「ビルの入口」という表現がある。この表現は、言うまでもないが、ビルという主体が入口という客体を所有していることを意味しているのではない。そうではなく、この表現は、入口がビルの一部をなしていることを意味する。「私の身体」も同じ理屈で解釈することができる。身体は私の一部をなす。こう考えれば、主体・客体という枠組みを超えることができる。

 しかし、「私」とは何か?私の身体が私そのものではないのか?という疑問が生じる。「AのB」という表現が意味を持つのは、AとBが違う存在であるときに限る。「机の机」は、それだけでは意味をなさない。「小さな机を並べて置く大きな机」という表現は意味があり、「机の机」はこのことの省略形だと定義することはできる。しかし、そのことを補足説明しない限り、「机の机」は意味をなさない。では、「私の身体」はどうか。先に、この表現をビルと入口になぞらえた。だが、私の身体こそが私そのものではないのか。霊魂の存在を仮定しない限り、私は私の身体以上の存在者ではない。それゆえ、「私の身体」は「机の机」と同じであり、意味がない。こういう反論がある。

 だが、そうではない。身体性は確かに「私」にとって不可欠であるが、そのすべてではない。「私」には私の名前、年齢、性別、所属している集団(国、勤め先、家族等)、経歴などが不可欠の要素として含まれる。それらはすべて身体に記憶として記録されているとは限らない。さらに、「私」には周囲の私に対する評価、周囲との関係、社会における権利と義務なども含まれる。つまり、「私」とは、本来的に社会的な存在とその存在様式を表現している。それゆえ、本来的に可視的、自然的な「身体」とはその存在の次元が違う。それゆえ、「私」と「私の身体」は同じではなく、「私の身体」という表現は十分意味をなす。

 だが、それでもどこか不可解なところが残る。私たちが「身体」という表現を使うとき、機械と同質な単純な物としての身体を意味することは少なく、ジェンダー論が明確に論証しているとおり、社会的に評価された身体を意味することの方が圧倒的に多い。だとすると、「私の身体」という表現の有意味性に疑いが生じる。

 このように、「私の身体」というごく普通に思える表現にも、多くの謎が隠されている。そこに、哲学的な思索の意義がある。そして、どれだけ科学や技術が進歩しても、哲学の存在意義がなくなることはないことが示唆される。


(R1/6/8記)


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