☆ 物理学とは何か ☆

井出 薫

 物理学は自然科学の基礎で、化学や生物学などの他の学問分野は、物理学に基礎づけられて初めて正しさが認められる。理系の学生は、専門分野を問わず、物理学の学習を欠かせない。現代において、物理学は物質文明の土台と言っても過言ではない。しかし、物理学は何かというとはっきりしていない。

 物理学には二つの考え方がある。一つは設計図説、もう一つはモデル・道具説だ。

 設計図説では、物理学は自然の設計図であり、自然はその設計図のとおりに運動すると考える。設計図と言うと、設計者の存在が想定され、この説は神の存在を不可欠なものとするのではないかと思われるかもしれない。だが、自然そのものに設計図が内在すると考えることで、神の存在を想定することなく、設計図説を展開することができる。「自然=実体=神」と捉えるスピノザの哲学などは、この設計図説に通じるところがある。また、スピノザの思想を愛好したアインシュタインは、終生、統計的な未来予測しかできない量子論を不完全な理論とみなし、「神はサイコロを振ったりしない」と批判したが、彼もまた設計図説をとっていたとみなすことができる。また、唯物論哲学者や宇宙論・素粒子論を専門とする理論物理学者には、「物理法則は、人間の意志とは独立した客観的な真理である」と考える者が多いが、人間の意志から独立した真理とみなすためには、自然に物理法則が内在していると考えるしかない。それゆえ、設計図説は、唯物論的な思考方法に慣れた現代人の多くが暗黙のうちに同意している思想だと言うこともできる。

 だが、設計図説には難点がある。まず設計図が自然の中に存在することを証明する確かな証拠はない。アインシュタインの重力方程式は、宇宙のどこを観測しても見つからない。どのような実験をしても自然が自動的に重力方程式を書き出すことはない。重力方程式は重力現象を包括的に理解するための手段と考えた方が合理的だと言えよう。また、物理学が自然の設計図だとすると、宇宙に存在する他の知的生命体も、人間と同じような物理学を有していると考えられる。だが果たして本当にそうだろうか。人間の物理学とは似ても似つかぬ方法で自然を、人間と同様あるいはそれ以上に精確に把握し、人間を凌ぐ高度な物質文明を有している者が存在するのではないだろうか。他の知的生命体が見つかっていない現時点では、この問いには肯定的にも、否定的にも答えることができない。しかし、人間の物理学とは本質的に異なる方法で自然を理解している知的生命体が存在することを論理的に排除することはできない。

 設計図説の難点を克服する立場として、モデル・道具説がある。物理学は自然に内在する原理ではなく、また設計図でもない。それは人間が自然を研究し、理解するためのモデル・道具で、自然そのものとは異なる。これが物理学のモデル・道具説で、この立場を取れば、物理学は、自然現象を把握するための道具であり、その理論は人間が自然を包括的に理解するためのモデルということになる。こう考えれば、重力方程式が直接自然の中に見つからないことは当然のこととなるし、他の知的生命体が人間とは全く異質な方法で自然を理解しているという可能性を肯定できる。カントは、人間が認識できるのは現象だけで、物自体は認識できないとした。これは物理学のモデル・道具説の先駆けと言ってよい。ウィトゲンシュタインは、その著『論考』において、物理学を自然記述の方法として捉えた。これも、物理学をモデル・道具として捉えることに通じる。マルクスが『経済学批判』の序説などで、科学的認識と認識対象との差異を強調したことに着目して斬新な理論を展開したマルクス主義者アルチュセールもモデル・道具説に立っていると言えよう。カントと『論考』のウィトゲンシュタイン、アルチュセールの哲学には難点が多く、筆者もその思想に必ずしも同意しないが、それでも物理学の本質を捉えていると考える。

 しかし、モデル・道具説にも難点がある。モデル・道具説によれば、物理学とは、人間の意志から独立した客観的な真理というよりは、人々がその正しさに同意している間主観的な真理に過ぎないとみなす方が自然ということになる。しかし、現代人の多くは、物理法則は、人間が誕生する以前から、そして将来人類が滅亡した後も、成立する真理だと信じている。また、人間の感覚では決して捉えることができない素粒子や重力波などは実在するのか、それとも理論的構築物に過ぎないのかという科学実在論に関する論争があるが、モデル・道具説に立つ限り、理論的構築物に過ぎないという立場を取るしかない。つまり、現代人の常識とモデル・道具説との間には乖離がある。両者をいかに調和させるか、これはけっして容易な課題ではない。筆者はモデル・道具説を採用する者であるが、難点が存在することは認める。

 このような論争に何か意義があるのか、無益な思弁的論争に過ぎないのではないかという疑念があるかもしれない。だが、そうではない。量子論の観測問題、熱統計力学の解釈問題、特に断熱系でのエントロピー増大則と基礎法則の時間対称性(注)とをどのように調和させるかという問題など、物理学の原理的な問題を研究するうえで、どちらの立場を採用するかで、大きな違いが生じる。また、本稿では、もっぱら物理学を対象としたが、二つの立場は、認識一般に対しても適用可能であり、広く存在論、認識論に応用できる。それゆえ、これは哲学の根本問題に通じている。さらに、物理学の持つ巨大な力を考えるとき、未来を展望するために、それが何であるかを知ることは極めて重要で、人々の思想や行動に大きな影響を与えることが予想される。この問題はけっして一部のマニアにだけ通じる詰まらないものではない。
(注)厳密にいえば、時間対称性はごくわずかに破れている。しかし、その程度はごく微小で、マクロにおける時間反転に対する非対称性を説明するものではない。


(H31/2/25記)


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