☆ 技術とは何か(再論) ☆

井出 薫

 技術とは何か。何かの目的を実現するための手段、方法、知識や経験、道具などを総称して技術と呼ぶ。だが、これではあまりに意味が広すぎる。一度きりの技を技術とは言わない。挨拶などの慣習も技術とは言わない。

 技術と呼ばれるものは、一般的な性格を持ち、広く共同体で共有されるものを指す。さらに、現代においては、杖や眼鏡のような身体の延長と解釈できる身近な技術ではなく、身体から切り離され、知とモノが分離した近現代的な機械を駆使した技術を、狭い意味での技術と呼ぶことが多い。そして、現代社会に巨大な影響を与えている技術とは、この意味での技術を指す。そこでは、知とモノが分離し、モノの支配が顕著になっている。技術の進化と拡大に伴い科学も、工学も進歩している。しかし、それでも、モノは圧倒的な力を持ち、知は、その従属的な地位に甘んじている。

 だが、このような技術の理解には様々な異論があるだろう。まず「目的」という概念に批判がある。目的という概念には、目的を設定した個人または組織が主体的に技術を操作するという意味が(暗黙の裡に)含まれている。しかし、技術は人間の主体的な活動を必要条件とするものと解釈することが妥当だろうか。

 ハイデガーは、技術を手段と捉えることを容認しつつも、それは技術の本質ではないと指摘する。現代の技術は人間が主体的に支配するものではなく、むしろ人間が技術に駆り立てられ、部品化されている。それは決して偶発的な出来事ではなく、存在の本質に由来する。ハイデガーにとって、技術は単なる手段や道具ではなく、存在との関わり方の一類型をなしている。そして、存在との関わりとは、主体としての人間が対象を操作することではなく、存在の中で、存在の呼びかけによって、人間が存在と接することを意味する。技術において、人間が主体的に目的を設定するのではない。存在に促されて、人間は技術を通じて、(ある特殊な形態による)存在の現れをみる。

 現代において、技術は、人間の思惑とは無関係に発展する傾向が強くなっている。主体はむしろ技術の方だと言ってもよい。もちろん技術は自然の営みではなく、人間なしには存在しえない。しかしながら、科学技術の時代と言われる現代社会が自ら物語っているとおり、人間は技術を制御できていない。そして、それは人間が愚かだったり、間違いを犯したりするからではない。人間がいくら対策を考えても、つねに技術に先回りされる。それは、現代の技術において、知とモノの分離が進み、さらにモノが知を支配する状況が生じているからだ。その結果、技術は人間の頭脳を支配することになる。だが、それは技術の本質に由来するものであり、人間が道を誤ったわけではない。

 技術とは何かという問いにおいて、問題となるのは「目的」だけではない。「知」とは何か、「モノ」とは何かという問題がある。それは知とモノの分離とは何か、それが現実化する理由は何かという問いへと繋がる。そして、これらの問いの中で、「目的」という概念もまた再吟味されることになる。このように、技術は何かという技術の哲学の第一課題に答えることは容易ではない。しかし、それを問うことなしには、技術の哲学は意味がない。まず、目的、知、モノを問うこと、それを存在との関わりにおいて問うことが出発点となる。


(H31/1/20記)


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