☆ 記憶 ☆

井出 薫

 強烈な印象はいつまでも記憶に残り、しばしば人の思想や行動を決定する。

 小学4年生のとき、学校行事で、クラス揃って市川崑監督の東京五輪の記録映画を観に行った。その映画の一場面を今でも覚えている。水球の試合、どこの国の選手かは忘れたが、審判から見えない水の中で、相手チームの選手を妨害するためにパンツを引っ張っている。私も、周囲も、皆、わははと笑ったものだったが、その場面は私には特別な影響を与えたように思う。まだ子どもで、哲学などとは縁もゆかりもなかったが、今にして思えば、私の人間観の原型はこのときに出来上がった。人間は完ぺきではなく、悪いことだと分かっていても、それをしてしまうことがある。だからと言って人間を醜い存在だと考える必要はない。人間はその都度、その都度、懸命に生きている。悪いことでも、他人に迷惑を掛けないことであれば、余りくよくよせず、忘れてしまってよい。他人に迷惑をかけたら反省をして償いする。それでよいではないか。これが、私の人間観、処世術であるが、おそらく水球の選手の微笑ましい振る舞いが、この人間観の形成に大きな役割を担っている。だから、いつまでも記憶の片隅から離れない。

 人は、過去の記憶の下で、自分の思想を無意識のうちに作り出す。読者によって文学の評価は大きく異なる。現代日本の代表的作家である村上春樹の評価は、世代によってかなり違う。一般的に言って、筆者と同世代(60代)かその上の世代では村上の評価は低い。それは、私たちの世代の国語教科書などで文豪として称えられていたのが漱石、鴎外、芥川、川端などだったことに大きく影響されている。村上は、これら明治から昭和40年代ごろまでの日本文学の伝統とは一線を画し、マジックリアリズムの系統に属する。マジックリアリズムと言えば、日本ではガルシア・マルケスがその代表とされ、私を含め高齢者でも評価する者が多いが、それはあくまで外国文学としての評価であり、日本文学の伝統の中ではない。村上は日本人だから、高齢世代は自分たちがそうだと信じる日本文学の伝統という文脈で評価する。だから、村上の評価は低くなる。一方、30代くらいまでの者は、子どものころから村上を現代日本文学の代表として教えられてきているから、その文学を文学の典型であると考え、漱石などは古臭いと感じる。もちろん、高齢者でも村上を高く評価し漱石を評価しない者はいるし、若者で漱石を高く評価し村上を評価しない者もいる。それは、その者がどのような過去の記憶に基づき思考し、評価しているかによる。

 人は過去の記憶、特に少年期、青年期の記憶に影響されて、無意識のうちに思想が決まり、その思想に基づき、思考し、判断し、批判したり称賛したりする。そのことを理解することが、他者を理解する出発点になる。そして、それは同時に自らを反省する縁ともなる。


(H30/12/16記)


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