井出 薫
哲学の根本問題はたいてい「xxとは何か」という形式をとる。「存在とは何か」、「真理とは何か」、「正義とは何か」、「美とは何か」、「善とは何か」、「技術とは何か」、「心とは何か」などが、その典型例として挙げられる。倫理学は、「何が正義に適う行為か」を問うが、そのとき、「正義」という概念については、すでに暗黙の裡に了解されていることを前提としている。そうでないと、正義に適う行為が何かを問うことはできなくなる。だが、そのことは、正義という概念が明確に理解されていることを意味しない。そこで、哲学は「そもそも、正義とは何か」と問う。ここに哲学の根源性があり、存在意義がある。 だが、この「とは何か」が難しい。大体において答えがでない。事実、ここに挙げた問題で誰もが納得する答えが与えられたものは一つもない。それは、「とは何か」という問い自身が難しいことを意味している。 「とは何か」が、「それは何か」あるいは「それは誰か」という問いを意味していることがある。たとえば「明けの明星は金星である。」、「セリーグの優勝チームは広島である。」、「ウルトラセブンの正体はウルトラ警備隊の諸星ダン隊員である。」などがその例だ。しかし、「とは何か」がそれに対応するものを求めているのではないこともある。いや、そうではないことが多い。「真理とは何か」という問いの場合は、対応物を求めるのではなく、その意味していることを問うている。だが、それでは「とは何か」とは、意味を問うことであると言えるのだろうか。言えるかもしれないが、「意味」の意味が問題となり、無限後退に陥り、答えにはなっていない。それに、対応物を求めている場合は、殊更に、「意味」を持ち出す必要はない。 「とは何か」とは、大体において、「それはどのような存在なのか」と問うていると考えることができる。それは時には、対応物を求めることもあるし、性質を問うこともあるし、その一つの変種として本質的性質、それが明らかになると一意的に対象が定まるような性質を求めていることもある。いずれにしろ、このように解釈することで、おおよそ、「とは何か」が理解できる。 だが、これでは問題の解決にはならない。「存在とは何か」という問いに答えがないからだ。上の解釈では、「存在とは何か」は、「存在とはどのような存在か」ということになり、行き詰ってしまう。このような解釈が妥当だとするためには、少なくとも、「存在」は了解されている必要がある。だからこそ、ハイデガーは「存在とは何か」が哲学の第一問題であると述べた。また、併せて、存在は存在者とは異なると指摘した。だが、ハイデガーの終生の探求にも拘らず、結局のところ、「存在」が何かは分かっていない。晩年のハイデガーは、詩作する者と思索する者がわずかな言葉で存在の真理を発話することが大切と語るが、存在の真理が何かは誰にもわからない。そもそも、そのような問題設定は、言葉の持つ限界を露にする。ハイデガーは、言葉は存在の住処と論じるが、言葉は抽象性、一般性を持つがゆえに、一回性、唯一無二性をもって現れる存在を確実に捉えることはできない。必ず漏れ出てしまうものがあるからだ。 では、「とは何か」をどのように理解すればよいのだろうか。存在の捉えどころのなさを如何に解釈すればよいのだろうか。まず、気が付くことは、人が「とは何か」と問うのは、理解が困難なものと出会ったとき、あることに驚いたとき、神秘的なものを感じるときなどであることだ。それは日常性にどっぷり浸り満ち足りているときや何か目先の仕事に追われ機械的な作業を繰り返しているときは現れない。つまり、「とは何か」は世界の変容と関連している。 さらに、「とは何か」という問いが最も根源的な問いとなる場が「存在とは何か」であることから、存在と世界の変容が密接に関連することが示唆される。ハイデガーは「存在は存在である」と同時に「存在は生成である」と語っている。このことは、このあたりの事情を示唆していると言ってよい。 このように語ったとしても、「とは何か」又は「存在」の問題が解かれた訳ではない。だが、手掛かりは得られたのではないだろうか。そして、存在が変容と密接に関わることは、変容させるものとしての「技術」、古代ギリシャにおいてはテクネーと呼ばれていたものの根源性を示唆している。それゆえ技術論は存在論の重要な手掛かりとなる。本稿における「「とは何か」とは何か」という問いも、このような連関の中で考察を始めることが可能と思われる。 了
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