井出 薫
心の科学は可能か。こういう問いがしばしば立てられる。可能だと言う者もいれば、不可能だと言う者もいる。科学とは何か、心とは何かという問いに答えを与えない限り、心の科学の可能性を論じることは無意味だと言う者もいる。最後の主張はもっともなのだが、科学と心の問題を先に解こうとすると一歩も前に進めなくなる。それゆえ、科学、心という言葉に、多くの者が抱く漠然とした印象をもとに議論を進める方がよい。 眠っている男を起こして、「夢を見ていたか」と問う。男は見ていたと答える。この場合、本人に質問することなく、夢の内容を知ることができるだろうか。 男の全脳細胞をモニターし、寝ている間におきた脳細胞の活動を記録するとしよう。記録から、男の見ていた夢を推察することができるだろうか。できない。寝ている間の記録だけでは、脳細胞と脳細胞間の信号のやり取りを知ることしかできず、そこで何が起きているかを知る手掛かりはない。だが、日ごろから常時、モニターしているとしたら話しは変わってくる。自分の子供の顔をみると、必ず活動が活発になる脳細胞があるとする。寝ている間に、その脳細胞の活動が活発になったら、夢に子供が登場していると推測できる。同じように、妻や同僚に反応する脳細胞があり、また、会社という言葉や会社のビルに呼応して活性化する脳細胞があるとしよう。夢を見ている間、それらの脳細胞が活性化しているかどうかを丹念に調べていけば、夢の内容を知ることができる。こういう考えがある。 現実問題としては、このような試みは、技術的にも、倫理的にも不可能と言わなくてはならない。しかし、原理的にこのような試みは可能であり、それゆえ、心の科学は可能であると論じることはできる。しかし、本当にそのようなことは原理的には可能なのだろうか。脳細胞の数や接続経路は常に変化している。ある時点での脳の状態と全く同じ状態が未来に生じることはないし、過去に生じたこともない。それゆえ、過去の記録から子供に反応していた脳細胞がいつまでも、そうであるという保証はない。 さらに哲学的な問題がある。理論の正しさを検証するためには、本人にどのような夢を見ていたか質問し理論の正しさを検証する必要がある。理論では、妻と子供が居間でテレビを見たという結論になるとしよう。だが、本人に質問したところ、妻はおらず、代わりに妻の姉と子供がテレビをみていたと答えたとする。果たして、このようなときに私たちはどう考えればよいのだろうか。夢の記憶は失われやすく、本人が忘れているだけで、本当は、妻と子供が居間でテレビを見ていたのだと断定することができるだろうか。 夢は主観的な体験であり、それを客観性・一般性を求める科学的な結論と照合し、理論ないしは本人の記憶の正しさを判断することはできない。夢の内容を問われたとき、本人は確かに、妻ではなく妻の姉と子供がテレビを見ていたと信じているのだから、その言葉を承認しないわけにはいかない。君は勘違いをしているなどと言う訳にはいかないのだ。だからと言って、科学的な推測が間違っていたとも言えない。本人の言い分と食い違っているならば理論は間違っていると結論付けなくてはならないのであれば、夢の内容に関しては、いかなる科学的な研究も不可能になる。それゆえ、夢の内容に関する科学的な研究を本人の証言と照合することで、理論の検証ないしは反証をすることはできない。だが、それではどのようにして科学的な結論の妥当性を立証すればよいのだろうか。おそらく実証的な手段はなく、理論的整合性だけに頼ることになる。だが心は現実であり、数学的対象ではないのだから、それでは不十分であると言わざるを得ない。 正しい理論を発見することができれば、常に科学的な結論と本人の証言は一致するはずだと言う者もいるかもしれない。しかし、そのようなことは、人間の身体が閉鎖系ではなく開放系であることから不可能と言わなくてはならない。そもそも、客観的に捉えることができる脳細胞の構造や機能、活動と主観的な体験とが常に1対1に対応するという保証はどこにもない。それは検証不可能な永遠の仮説でしかない。そして、その仮説を信じるとしても、それだけでは、普遍的に正しい夢の内容に関する科学的な理論を構築することはできない。正しさを保証する証拠を得る方法がないからだ。 夢は心のほんの一部に過ぎない。しかし、そのほんの一部においてすら、科学的な研究は極めて難しい。心の持つ主観性が、客観性を求める科学の前に立ち塞がり、その歩みを邪魔する。そして、科学はおそらくそれを超えることはできない。心は脳の働きであるという考えは正しいと思われるが、そのことを以って科学により心が解明できると結論付けることはできない。科学は夢を見ているときに人の身体に何が起きているか、脳の発達や損傷が認知や気分にどのような影響を与えるかなどを一般論的な立場から解明することができる。だが、夢の具体的な内容つまり心の内容に立ち入ることはできない。科学的な研究は、心が持つ主観性を理解することには繋がらない。そして心が比類なき存在である理由はその主観性にある。それゆえ、心の科学は不可能ないしは極めて困難だと言わなくてはならない。 了
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