☆ 機械は意識を持てるか ☆

井出 薫

 機械は意識を持てるか。現在のコンピュータは、たとえAI(人工知能)と呼ばれている者ですら、意識を持ってはいない(注)。ただ、まるで意識を持つ人間であるかのように振る舞うことができるだけだ。だが、技術が進歩すれば、やがてコンピュータは意識を持つようになると考える者がいる。
(注)ただし、「意識を持つ」とはどういうことかの明確な定義や誰もが納得する説明があるわけではない。それゆえ、今のコンピュータが意識を持っていないことを証明できるわけではない。だが、今のところ、圧倒的多数の者が、コンピュータには意識はないと確信しており、本稿では、この現在の常識を出発点に議論を行う。

 特定の1つの脳細胞の構造と機能を徹底的に調べて、それを完璧にシミュレーションできる機械を作る。そしてそれを脳細胞と取り換える。それで人は意識を失うだろうか。おそらく何もなかったように考え行動する。では、この状態で、また一つ別の脳細胞を機械で置き換えるとしよう。それでも意識はあるだろうか。やはり、あるに違いない。この操作を繰り返して、すべての脳細胞を機械に置き換えたとする。そのとき、それは純粋な機械であるが、同時に意識を有する。このようにして機械は意識を持つことができるようになる。こう考える者がいる。

 この考えは正しいだろうか。現実問題としてこのような技術がいつになったら実現できるのか分からない。永遠にできないかもしれない。しかし、原理的に不可能と考える理由はない。意識とか心と呼ばれる存在はコンピュータのプログラムだと考える者ならば現実的にはともかく、原理的には可能だと主張するに違いない。アルゴリズムさえわかれば、脳細胞の機能をすべて機械でシミュレーションできると考えられるからだ。

 しかし、外部から観察できる行動はコンピュータで完全にシミュレーションできるとしても、それで意識を持てるということにはならない。アルゴリズムレベルでの完全な一致は、物理化学的なレベルでの一致を意味しない。もし物理化学的なレベルで一致しているのであれば、そもそもアルゴリズムレベルでの一致を問題とする必要はない。

 それでも、一つの脳細胞を機械に置換しても、それで意識が消滅することがないとすれば、意識を機械ですべて置き換えられるという考えは正しいように見える。だが、それは、砂山から一粒の砂をとっても砂山であることに変わりはないから、砂山であることを維持しながら、すべての砂を取り除くことができるという詭弁にどこか似ている。脳細胞一つを機械で置き換えても、確かに意識がなくなることはない。だが、気が付かない程度だが、わずかながらに意識の覚醒水準や内容が変容していることは十分に考えられる。特に意識とのかかわりが強いとされる前頭葉の脳細胞を置換したときには、大きな影響があるように思われる。

 ここでの議論は、意識を持つ機械を作ることができるかどうかは、意識が、物理化学的なハードウェアの次元に存在する、又はハードウェアと離れて存在することはないか、ソフトウェア(アルゴリズムあるいはコンピュータプログラム)というハードウェアと切り離された次元に存在するのかという問題に帰着されることを示している。(注)
(注)いずれでもないとすれば、意識とはハードウェアとも、コンピュータのソフトウェアとも異なる霊魂やヘーゲルが言うところの精神として存在することになる。

 おそらく、意識はハードウェアの次元に、ソフトウェア的な性格を持つ何かとして存在する。それゆえ、脳細胞を少しずつ置換していって意識を持つ機械を作ることは、機械と人間の物理化学的な性質の違い、つまりハードウェアの違いから不可能であることになる。そのことは、ソフトウェアはハードウェアの活動を数学的に表現した者であり、ソフトウェア単独では実体を欠くことからも示唆される。もし可能であるとすれば、その機械は有機物質からなる生命体、それは人間そのものあるいは、他の惑星に棲むと予想される知的生命体を作ることに等しい。それはコンピュータ科学の世界ではなく、生物学とその応用の世界に属する。

 このことは、人間の知能をすべて人工知能でシミュレーションが可能だとする人工知能論者の見解に疑問を投げかける。知能とは意識そのものではなく、意識の一部並びに無意識的な脳の活動に属する。つまり、意識を持つ機械を作ることができないことが、知能を模倣することができないことを意味するわけではない。しかし、ここでの議論が示唆するとおり、知能と呼ばれる機能や活動もハードウェアと切り離すことはできない。それゆえ、脳細胞というハードウェアを土台とする人間の知能と、半導体や磁性体などを土台とする人工知能のそれには決して解消されない差異が残る。人工知能論者は、シナプス結合し、デジタルな電気的信号を送受する脳細胞のネットワークと、電子回路の類似性から、脳を電子回路の一種とみなし、人工知能で人間知能を完全に模倣できると考えるのであるが、ことはそう単純ではない。ハードウェアの違いを無視することはできない。蛋白質の化学反応をコンピュータアルゴリズムに帰着させることはできない。連続的な物理化学反応はコンピュータ科学のような離散数学では表現しきれないものがある。

 ただし、このことは、人間の知能が人工知能に優っていることを意味しない。人工知能にはできるが、人間にはできないことが無数にある。人間は、(人間的な意味での)知能では、猿の知能に優る。だがそれでも猿の知能にはできるが、人間の知能にはできないことがある。同じように、人間にはできて人工知能にはできないことがあるに違いない。但し、そう遠くない将来、ほとんどの場面で人工知能が人間に優る時代が到来することは間違いない。機械は意識を持つことはないが、多くの局面で機能的に人間を凌ぐようになる。ただ、そのことは機械が人間や他の生物よりも、その存在を尊重すべき者となることを意味しない。真に尊重すべきは生命であるからだ。


(H30/9/2記)


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