☆ マルクスとウェーバー ☆

井出 薫

 筆者が学生だった60年代から70年代、マルクスとウェーバーを対比して議論する書籍や論文、評論などが巷に溢れていた。その後、マルクスの思想に基づく共産主義運動が衰退し、マルクスへの関心が薄れたこともあり、両者を対比させて議論されることはほとんどなくなった。だが、今でも二人から学ぶべきことは多い。

 マルクスは、その著『経済学批判』の序言で、生産力に規定された生産関係が現実的・物質的な土台であり、その上に法や政治が存在し、さらにその上に宗教、芸術、哲学などが存在すると論じた。そして、(筆者が学生時代の)マルクス主義者たちの多くは、マルクスは、生産力とそれに規定された生産関係からなる下部構造が、法、政治、宗教、芸術、哲学などのイデオロギー諸形態(上部構造)を決定するという思想、いわゆる経済決定論を提唱したと主張していた。

 これに対して、ウェーバーは、プロテスタンティズムが浸透した地域と資本主義が発展した地域との間に相関関係があることを見出し、プロテスタンティズムの倫理が資本主義発展の原動力となったと指摘する。西洋の歴史において、プロテスタンティズムが興隆するまでは、労働(labor)とは奴隷の役目であり、高貴な市民がやることではないという考えが根強く、労働は人間活動の中で低級な部類に属するとする思想が支配的だった(注)。それがプロテスタンティズムの登場により変わった。労働することはよいことであり、労働の成果としての富を蓄えることも善とされるようになる。確かにこれは資本主義興隆のために欠かせない条件だと言ってよい。そして、一部の者たちは、ウェーバーはマルクスの経済決定論が誤りであり、むしろ宗教などイデオロギーが歴史を決定する要因であることを明らかにしたと論じた。
(注)同じような考えは20世紀においても、アーレントの著作『人間の条件』などに見受けられる。

 しかし、マルクスとウェーバーを対立する思想を提唱した者と考えることは正しいとは言えない。マルクスは、確かに、経済的な構造が人類の歴史にとって極めて重要であると論じた。しかし、経済が、上部構造を一義的に決定するとは言っていない。マルクスは、経済は自然科学的に精密に分析することができるが、上部構造は階級闘争の場であると述べている。もし、下部構造が上部構造を決めるのであれば、上部構造もまた、下部構造同様に自然科学的に精密に分析することができることになる。だがマルクスはそれを肯定しない。一方、ウェーバーはプロテスタンティズムの倫理の浸透が資本主義発展に大きな役割を果たしたことを示すが、それで資本主義発展のすべてが理解できるとは言っていない。労働を尊び、富の蓄積に励むという倫理観が浸透すれば自動的に資本主義が発展するわけではない。貨幣経済の農村部への浸透、運輸交通網の拡大、産業革命など様々な要因が重なり、資本主義は発展した。資本主義的経営に欠かせないのが複式簿記だが、西洋で複式簿記が最初に広がったのは、カトリックが多数を占めるイタリアだった。プロテスタンティズムの倫理だけで資本主義の発展は説明できない。そんなことは碩学ウェーバーが知らないはずがない。

 マルクスとウェーバーは対立する思想を提唱したのではなく、互いに補完する思想を提唱したとみるべきだろう。生産力の発展が人間社会を大きく変えることは言うまでもない。生きるために不可欠な食糧が容易に手に入る社会と、そうでない社会では、人々の暮らしぶりや考え方が大きく変わることは容易に想像が付く。江戸時代、江戸から九州、北海道に情報を伝達するためには数日以上の日時を要した。そのような時代には、現代的な普通選挙による議会制民主主義は成立しえない。全国規模の選挙が不可能だからだ。逆に情報通信ネットワークを使って瞬時に様々な情報が伝わり、多くの国民がその情報にアクセスが可能な社会で、封建制度を長期にわたって維持することは難しい。封建制度を支える身分制が合理性を欠くものであることを早晩国民が知ることになるからだ。このように、生産力とそれに規定された生産関係つまり下部構造が社会にとって極めて重要であるとするマルクスは正しい。その一方で、ウェーバーが示したとおり、慣習や考え方の変化が経済を含めた社会全体を大きく変化させることもある。そもそも、生産力と生産関係は、自然現象のように自動的に発展するわけではない。生産力は内的に発展するなどと言う者もいるが、それではマルクスではなくヘーゲルになる。そうではなく、様々な外的要因を媒介しながら、生産力と生産関係は発展する。そして、ヨーロッパの資本主義の発展においては、重要な外的要因の一つとして、プロテスタンティズムの浸透があった。マルクスが生きてウェーバーの本を読んだとしても、おそらくウェーバーの主張を否定することはなかっただろう。むしろ、ウェーバーの発見した事実を含む様々な要因で生産力が発展し、資本主義という新しい生産関係が確立したのだと論じたに違いない。また、ウェーバーも、その政治的立場がマルクスとは著しく異なるとは言え、『経済学批判』の序言で示されたマルクスの思想そのものを否定することはなかった。つまり、マルクスの思想はウェーバーにより補完され、ウェーバーの思想もまたマルクスにより補完される。

 マルクスとウェーバーには共通する点がある。二人とも社会や歴史に関する科学つまり社会科学を確立しようとした。マルクスは、真に科学的な経済学を確立するために、便宜的に社会を上部構造と下部構造に分割した。それにより、マルクスは、法や政治、宗教など、つまり上部構造と切り離して経済学研究を進めることができ、その成果が資本論として結実した(未完成だったが)。一方、ウェーバーは、社会の構造や現象から抽象的な理念型を構成し、その内部で科学的な社会学の展開を試みた。プロテスタンティズムと資本主義の連関についての研究もその事例の一つと捉えられる。

 このように、マルクスとウェーバーはともに社会の科学を目指したが、その方法は大きく異なっていた。そのため、時には両者が対立した思想を述べているようにも見える。だが、実際は先に述べたとおり互いに補完している。社会の科学は現代にいたっても、未だ方法論すら確立されたとは言い難い状況にある。それはおそらく社会という場の特性に基づく。社会科学では自然科学のように明確で体系的な方法論を手に入れることはできない。だから、補完しあう多様な方法に基づき研究を進めるしかない。マルクスとウェーバーの関係がそれを示している。そして、マルクスとウェーバーを対比しながら研究することに意義がある理由がここにある。


(H30/8/26記)


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