☆ 存在と科学、そして技術 ☆

井出 薫

 科学、特に物理科学は数学を駆使して、世界を数学的世界として表象し、その特質を解明する。その一環として、科学者たちは、人間の精神もまた、数学的世界像の下にモデル化して理解し、またコンピュータを使ってそれを再現し、あるいはそれを超える知性を生み出そうとする。

 物理科学やその応用が画期的な成果を上げていることもあり、多くの科学者は数学的世界像が正しい世界像、すべてがそこに還元される世界像だと信じている。たとえば、AI研究者の多くは、コンピュータで人間精神を完全に再現できると信じている。ただ、まだ、その方法が確立されていないだけだと彼と彼女たちは説明する。脳は一種の電子回路であり、そこで起きる反応はすべて数学的に表現できる(=プログラム化)できる。だから人間の脳=精神=コンピュータだと言う訳だ。

 コンピュータサイエンスの父チューリングは不思議なことにテレパシーの存在を確信し、人間精神を数学化することには限界があると考えた。だが、チューリングの後継者たちは、この点については師の教えを完全に無視している。テレパシーは存在せず、それを除けばチューリングも人間精神がコンピュータと同等だと考えていたとする現代のAI研究者たちは、数学的モデルこそが精神の本質を表現していると論じる。

 だが、このような考えが正しいという根拠はない。ただ物理科学とそれを応用した様々な技術が大きな成果を上げているという事実があるに過ぎない。しかも、それは成功しているという思い込みに過ぎないことが少なくない。確かに情報処理技術は進歩した。だが、夏の暑さを解消したり、地震を防いだり、台風を消滅させたりする方法はない。おそらく、これからもないだろう。宇宙誕生の瞬間を現代物理は解明しているというが、足下の地震のメカニズムは解明されていない。それだけではなく、周囲の様々な出来事を見渡すと、分かっていないことの方が遥かに多い。しかも数学や物理学が示すとおり、カオス現象が存在するところでは予測は不可能となる。

 しかも、これらの事実は世界という存在のごく一部でしかない。AI研究者は人間精神をすべて計算として理解しようとする。微妙なニュアンスを理解する力、パスカルの言葉を借りれば繊細の精神とでも言うべき精神もまた数学的、計算論的な存在とされる。もちろんこのような視点を研究のアプローチとして取ることは悪くない。このような観点で世界を、精神を共に解明しようとすることには意義がある。実際、脳の働きは確かに物理学的、数学的に理解できるところが大いにある。また、そのような知見が医学や教育、ビジネスなど多くの分野で大きく役立っていることも言うまでもない。

 だが、それでも、数学化された世界とは、世界という存在の一面でしかない。それに世界が還元されることはない。複雑系の理論もカオス理論も数学の一分野に過ぎず、それらを用いても、数学的世界が持つ限界を超えることはできない。世界には、数学化され得ない多様な断面がある。おそらく人間精神にもそのような面がある。それをパスカルは繊細の精神と評した。AI研究が進めば多くの作業を人間よりAIの方が巧みに熟せるようになる。だがそれでもなお人間には数学化されない能力があり、そこではコンピュータに引けを取ることは決してない。

 数学化されない世界、計算論化できない世界が存在する。但し、それらを数学的な物理科学で解明することはできない。なぜなら、できるならば、それは数学的な物理科学の対象となるからだ。そのような世界は、倫理や美、生命概念などの上に表現される。まさに、このような数学化されない存在の本質を探究し続けたのがハイデガーだった。そして、ハイデガーは、それを言葉の中に探し続けた。だが、存在の全てが言葉で表現されるとは思えない。寧ろ言葉に表せないモノの世界があると思われる。このような存在−数理科学を超える存在を表現するものの一つが(ハイデガーが言うところの)存在の住処としての言葉であり、また、言葉では表現できないモノを何らかの方法で示す術が技術なのだ。それはまさに、ウィトゲンシュタインの論考の主張−語りえぬが示される存在と対比され、またハイデガーが技術を存在との関わりの仕方として捉え、詩作もまた現代的なテクノロジーと並んでその原初はテクネーであったと語る所以なのだと考えられる。


(H30/7/29記)


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