井出 薫
貨幣には二重の存在意義がある。貨幣は、商品の流通を媒介し、投資を促進する。これを計算合理性の表象としての貨幣と呼んでよい。それとは別に、貨幣には、富を象徴し人々の欲望を刺激し経済活動を活性化するという役割がある。それを黄金への欲望と表現することができよう。 黄金への欲望は、昔はモノとしての(貴金属の)金に裏付けられていた。金は、富と力を約束する存在として崇められてきた。計算合理性の表象としての貨幣は、本来、商品購入に使うための道具であるが、それだけでは人々を掻き立て、使うよりも貯めることに人々を誘惑する存在とはなりえない。黄金への欲望があって初めて、貨幣は富を象徴し、その蓄積を促すことになる。そして、それは資本主義の発展を促した。 近年、ICTの発展でキャッシュレス化が進んでいる。それはモノとしての金やその代替物としての紙幣の衰退を意味する。貨幣はモノとしての性格を失い抽象的な数へと変容する。人の欲望は基本的にモノへと向かう。それゆえ数字に過ぎない口座の残高や電子マネーに対しては金へのそれのような欲望は生じにくい。 では、キャッシュレス化で黄金への欲望は消滅し、貨幣はもっぱら計算合理性の表象として現れるようになるのだろうか。最近の若い人はモノへの拘り、富の蓄積への拘りを急速に失っていると言われる。それは黄金への欲望の衰退を示唆しているのだろうか。 貨幣が金から紙幣に代わったときにも、黄金への欲望は変容したに違いない。紙幣は、金のような人々を魅了する存在ではない。ところが歴史を見ると、紙幣の普及は寧ろ人々の欲望を拡大し資本主義の発展を促したようにも思える。 紙幣はあくまでもモノであり、紙幣の背景には金の記憶が存在する。紙幣という媒介物を介して人々の黄金への欲望は存続し、人々の意識と行動様式、共同体の活動に巨大な影響を与え続けた。それは兌換紙幣から不換紙幣へ代わっても変わることはなかった。しかし、キャッシュレス化で、貨幣は純粋な数へと転換する。その結果、貨幣が純粋な計算合理性の表象へと還元される可能性はある。 マルクスの価値形態論では、貨幣形態とは金が一般的等価物の地位を占める価値形態であるとされ、一般的等価形態とは(形式的なものであるが)区別されている。それはマルクスの意図するところではないが、貨幣には計算合理性と黄金への欲望という二重の存在意義があることを示唆する。だが、貨幣が純粋な数となると、貨幣形態と一般的等価形態との区別は完全に意味を失う。そして、それは黄金への欲望の消失を示唆する。 おそらく黄金への欲望は衰退していく。では、黄金への欲望が消失したとき何が起きるだろう。拝金主義は消え去り、人々はあらゆる場面で合理的な振る舞いをするようになる。だが、同時に、社会の進化の原動力を失うことにもなる。それが人類の歴史にいかなる意味を持つのか、それは、今はまだ答えることができない。 了
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