☆ 言葉の表記、概念、対象、そして技術 ☆

井出 薫

 私たちは、言葉にある印象を抱いている。「木」という言葉を例に挙げよう。まず「木」という表記がある。次いで、「木」が指し示す、自然界に存在する木や、それを伐採した物など対象としての木がある。木という言葉は一般名詞で、固有名詞ではないから複数の(対象としての)木に適用される。そのようなことが可能となるのは、「木」という言葉に、表記としての「木」だけではなく、この言葉が示す内容あるいは概念(論理学では、「内包」と呼ばれる)があるからだ。つまり、言葉は、表記、概念、対象という3つのセットからなる、こう私たちは漠然と考えている。

 このような考えは間違いではない。しかし、誤解を生むことがある。ソシュールは、記号表記(シニフィアン)と記号内容(シニフィエ)の結びつきの恣意性を指摘した。だが、ここで人々は記号表記と記号内容が独立したもので、独立した二つの存在が恣意的に結びつくという考えに陥りがちになる。だが、記号表記と記号内容の結合の恣意性は、独立した二つの存在があり、それが恣意的に結合することを意味するのではない。「木」という言葉が共同体で使用されるようになったとき、そこに記号表記と共に記号内容が見出される。たとえば、「木」という表記/木という対象でなくとも、「木」という表記/石という対象という組み合わせでもよかったし、「木」という表記/桜という木の一種という対象でもよかった。このことを恣意性と言う。それは予め表記と対象が独立に存在し、恣意的に結び付いたのではない。言葉が成立したときに、表記と対象がともに生成した。そして、表記も対応する対象も恣意的に生み出された。

 このことは、表記と概念の間にも成り立つ。それゆえ、言葉の表記、概念、対象という3つのセットは、それぞれが独立して存在するのではなく、一つの言葉が共同体において使用されるようになったとき、そこに見いだされる存在であり、事前に独立して存在していたわけではない。さらに、一旦確立した言葉でも、その使用が変化することで、表記、概念、対象の結びつきとそれぞれの内実は変化する。

 このことが典型的に現れるのが技術だ。工作技術、建築技術、運転技術、インターネットなどは、言葉であり、その概念であり、対象でもある。そして、しばしば、技術を論じるときに、何を意味しているかを明らかにせずに議論することで、本質を見失っている。だが、それはやむを得ない面がある。技術という言葉、様々な技術を表現する言葉は、その表記、概念、対象が非常に複雑な結合をしているからだ。その連関を読み解くには、それぞれの技術の発達史を紐解き、同時に、共時的な要素技術の間の連関を解明する必要がある。さらに、個別の技術については当該技術の実態に即して議論することができるが、抽象的な「技術」を論じることは容易ではない。特に抽象的、一般的な技術を論じる際には、表記、概念、対象は一体になっていると考える必要がある。概念には技術の持つ知的な側面が表現され、対象には技術の持つモノ的な側面が表現される。だが、技術とは知であり同時にモノであり、そのことで初めて技術として成立する。それゆえ、技術を表記、概念、対象に分解することはできない。

 技術を問うことは、ある意味では、存在を問うことに通じる。技術は人工的な存在、ノモスであるが、人がそこに住まう存在への関わりの最も重要な在り方を示すものであり、私たちが存在を問う時、そこでは必然的に技術を問うことになる。ナチ関与で非難されたハイデガーが戦後、言論界に復帰するきっかけとなる講演の題目が「技術への問い」だったことも、このことを裏付ける。言葉を問うこと、技術を問うこと、存在を問うことは、同じことではないが、密接な関連性を有する。特に、20世紀を代表するとされる哲学者、ハイデガーとウィトゲンシュタインの現代的な意義を問う時には、まさに、この問いの連関を問うことになる。


(H30/6/24記)


[ Back ]



Copyright(c) 2003 IDEA-MOO All Rights Reserved.