☆ 存在の背後にあるもの ☆

井出 薫

 「存在とは何か」これが哲学の第一問題だとハイデガーは語る。しかし、存在とは何かという時には、「存在」ということについて、論者は何らかのイメージを抱いている。だからこそ、この問いを問い、論じることができる。たとえば、まったくドイツ語を知らない者が「SEIN(「在る」のドイツ語)とは何か」と問われても、「SEIN」が何を意味するのかイメージできない。だから、その者はこの問いを問うことも論じることもできない。

 哲学的な思索の難しさがここにある。哲学者は、前提なしで物事の本質に迫ろうとする。だから、予め有している「存在」に対するイメージそのものを、「存在とは何か」という問いと同時に問う。そのことを看過すると予め有していたイメージを言葉に表しただけで終わる。だが、「存在」のイメージは「存在」という言葉とそれが意味する何かと切り離して論じることができない。なぜなら、私たちのイメージとは言葉を学ぶことを通じて形成されるからだ。さらに、イメージというと、明確に意識に現れ自覚されるものという感じがあるが、イメージなるものが意識されているとは限らない。「隣の部屋から椅子を運んできてくれ」と依頼されると、私たちは椅子を運んでくる。しかし、その際、椅子という言葉を耳にして、心の中に椅子のイメージが現れる訳ではない。ただ依頼を理解し椅子をもってくるだけなのだ。それゆえ「イメージ」と言うよりも、「(言葉の)背後にあるもの」と言う方が正確だろう。

 これに対して、ウィトゲンシュタインならば「「背後にあるもの」などを想定する必要はない。他人の言葉を聞き行動する、言葉を返す、言葉を発して他人に語る、行動を促すなどというゲームがあるだけだ。」と答えるだろう。ニーチェも同じように考えるに違いない。背後にあるものなどを想定する者は、ニーチェにとっては、現実を直視できない卑小な者、背面世界論者だということになる。

 ウィトゲンシュタインやニーチェの指摘は鋭いが、完全には同意できない。言葉の意味が呑み込めない時、私たちはしばしば心の中にイメージを思い浮かべたり、絵を描いたり、あるいはその言葉が意味していると想像される物に目を遣ったりする。背後にあるものが明確な輪郭を持つと考えるとニーチェやウィトゲンシュタインの批判が的中するが、背後にあるものを、理解を促す何かと捉えるのであれば、その存在を否定することはできない。

 それでは、背後にあるものは何か、心理学者ならば意識や無意識でそれを説明する。脳科学者や人工知能研究者ならば、脳神経系の構造や機能、そこでやり取りされる信号、あるいは脳神経系の信号で実現されるアルゴリズムを背後にあるものとする。しかし、無意識など実在せず、心理学者の考えはレトリックに過ぎない。脳科学者や人工知能研究者たちの答えは、すべてが物質とその活動として捉えられ、それが数学的に表現できるという暗黙の前提、自然主義に立脚している。この前提は現代では多くの者から支持されてい。しかし、この考えは、言葉の意味とされるもの、行為の意義とされるものなど、人間世界を取り巻く極めて重要な事柄が、自然科学や数学では表現できないことを看過している。もし数学や自然科学ですべてが表現されるのであれば、哲学は要らない。ハイデガーは、晩年、哲学はサイバネティクスに取って代わられたと述べたが、それは計算可能な世界という世界像が20世紀に入って支配的になったということ、それは古代ギリシャ以来の西洋形而上学の帰結であることを示唆しているのであり、哲学的な思索が不要だということを語っているのではない。ハイデガーは、伝統的な哲学とは異なる新しい哲学的な思索を求めていた。

 それでは、哲学で見出すべき背後にあるものとは何だろうか。プラトンにとって、それはイデアであり、アリストテレスにとっては形相などという表現で語られた物事の本質的な在りようを意味した。だが、このような超越的、固定的な世界像−それをマルクスやエンゲルスは形而上学と呼んだのだが−では、その姿を適切に捉えることはできない。そして、このような世界像に基づく西洋哲学が西洋形而上学と呼ばれ、それが数学的計算可能な世界という現代の世界像へと連なっている。そしてそれを解体することこそが求められている。これがハイデガーの診断だった。しかし、ハイデガーは、晩年、西洋形而上学を根源的に転回するという企画を放棄する。西洋形而上学は手強く、背後にあるものとしての「存在」のその真の姿を捉えることはできない。存在は西洋形而上学という衣を纏って自らを隠ぺいする。では、背後にあるものは永遠に私たちにその真の姿を現すことはないのだろうか。

 手掛かりは二つある。西洋形而上学は世界を変転するもの、たとえば弁証法的に発展するものとして捉えるときですら、その変化の原理そのものは超越的で、固定的なものとして思惟されている。マルクスやエンゲルスでも変わることはない。それを突破し、固定的で、かつ変転する、そもそも、そのような二面性を認めながら、それを超える視界を見い出すことは不可能ではない。まず、存在も、世界も言葉であり、言葉として現れるという事実を、再度、徹底的に吟味することが一つの鍵となる。存在の背後にあるものを語る時に、それは言葉で語られる。そしておそよ文は存在(在る)の変化形を含む。含まない場合も在ることが示唆される。実際、ハイデガーは「在る」の用法を詳細に吟味した。しかし、「在る」の多様性と豊饒性以上のことを見出すことはなかった。また、それをハイデガーが嫌う計算可能な世界と対比させることもなかった。むしろ、西洋形而上学とその帰結としての計算可能な世界という世界像を、在るの多様性、豊饒性と対比させることで、背後にあるものを見出し、それを解体・再構成し、西洋形而上学を継承しかつ新しい世界像を構築する手掛かりが得られるのではないだろうか。もう一つは技術だ。技術は一つの「存在の在り方」を示す。そして、技術が存在を存在足らしめるということ、たとえそれが、ハイデガーが批判的に語る存在を挑発する近代技術だとしてもそうで、技術は、存在の多様性を、豊饒性を(それを破壊する危険性を孕みながらも)明るみに出す。つまり、技術は危険であるが、存在の背後にあるものを明るみに出すという性格を有する。それゆえ、技術の哲学的意味を探求することで、その本質を明らかにして、背後にあるものを明るみに出すことが期待される。

 背後にあるもの、それを超越的、固定的なものとして捉えると無意味なものとなる。だが、背後にあるものなど存在しない、不要だということではない。そして、言葉と技術にそれを明らかにする可能性があると期待する。


(H30/6/10記)


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