☆ 自己意識 ☆

井出 薫

 意識には不思議な特徴がある。自己意識という特徴だ。何かを見ているとする、その見ている私を観察する私が意識に現れる。この反省する意識は常に意識されているのではない。何かに熱中しているとき、あるいは我を忘れているときには、この反省する意識は現れていない。日大アメフト部で悪質なタックルを行った選手はおそらくその当時、意識の視界に自己意識は現れておらず、ただ当時の我を忘れている意識が痕跡として記憶に残っているだけだったに違いない。退場になり、ベンチに下がった時、選手は我に立ち返り、自己意識が現れ、我が身を反省し号泣した。

 視覚など対象に志向している意識に、その意識を意識し、新たな次元で思考することを可能とする自己意識、この両者が同居するということは特別な意義を持つ。考えるとは、意識の中で、自ら語りそれを自らが聞くことを指す。なぜ、このようなことが人間という存在で可能となっているのかはわからない。その身体的なメカニズムは脳科学などの進歩を待つしかない。もっぱら哲学的思索によりそれを解決することはできない。それは思索の対象ではなく、思索の条件だ。実際、この自己意識なるものがなければ、哲学的思索は可能ではなかっただろう。また、肯定的に見れば、自己意識があったがゆえに、科学や技術は進歩してきたとも言える。自ら語り、それを聞くということ、つまり反省能力は、あらゆる学問や技術に欠かせない。

 そこで、フッサールはこの事実に着目し、純粋意識に様々な知を配置して、その根拠を吟味しようとした。そして現象学へと道を開き、20世紀哲学に決定的な影響を与えた。

 しかし、フッサールを含めて多くの哲学者は自己意識を過大評価する傾向がある。自己意識は先にも述べたとおり常に現れているわけではない。自分自身には分からない、何かを切っ掛けに自己意識が立ち現れる。それゆえ自己意識は人間の日々の行為において必ずしも中心的な役割を果たすとは限らない。むしろ、自己意識が陰に隠れているとき、何かを突き詰めることで創造性が発揮され、それを後から自己意識が認識する。こういう風に考えることもできる。さらに自己意識とそこに現れる者を解明するには、それらを反省する意識が必要となる。つまり、自己意識を意識する高次の自己意識の介在が欠かせない。しかし、高次の自己意識と言っても、それは自己意識であり、超越的な場所を確保できるわけではない。自己意識は無限へと上向する訳ではなく円環をなしている。それゆえ、そこには自己言及性による様々なパラドックスが生じる。しかし、それを回避することはできない。

 このように、自己意識を分析することで、哲学的諸問題を解決にする道が開けるという考えには無理がある。意識・自己意識という構図において、直接的な介入はしないとしても圧倒的な力を行使するのが他者とのコミュニケーションであり、それにより意識も自己意識もその視界を拡大する。つまり、他者の存在を必須要件とする社会という場を無視して真理を明らかにすることはできない。フッサールは単純な主体/客体という図式を超え、現象学的還元という手法を開発し、多くの哲学者、思想家に巨大な影響を与え、今も与え続けている。ただし、その思想には限界がある。フッサールは、自己意識が常に現れているのではないということ、社会の介在により意識と自己意識の視界が拡大していることに十分な注意を払っていないと思われる。そのために、フッサールは曖昧さのない厳密性を求めたにも拘らず、その哲学的探求の帰結は曖昧で、それが何を意味しているのかを巡って読者を悩ましている。それゆえ、フッサールより先に進みたい者は、社会という場に身体と共に意識及びそこに時折現れる自己意識を配置し、自己意識の特質を解明する必要がある。


(H30/5/27記)


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