☆ なぜ技術の哲学なのか ☆

井出 薫

 科学の哲学はたくさんある。分析哲学系の哲学者には科学哲学こそ哲学の中心であり、分析哲学=科学哲学であるとする者もいる。しかし、哲学において真に重要な主題は科学ではなく技術だと筆者は考える。

 科学も、技術も、人の存在との関わり方の一つだと言ってよい。科学は存在を対象化し、対象を操作し、対象のモデルや概念を作り、理論を構築し、対象となる存在の過去・現在・未来を説明、予測する。科学が成立するには、存在を対象化することが欠かせない。しかし。存在の対象化自身は科学の前提であり帰結ではない。科学は存在の対象化の正当性や根拠を明らかにすることはできず、所与の現実として受け容れるしかない。ただ、科学の成功だけが、このような対象化の正当性を示唆する。

 科学が存在を対象化するとき、普遍的な理論を構築するために、高度の抽象化が行われる。その結果、科学は数学的に表現することが可能となり、使用される数学の水準や多様性が科学の進歩の度合いを評価する基準の一つになる。

 このように科学は、存在に対して特定の姿勢を取ることで成立する。現代の科学は強力で信頼性は高い。だが、科学における存在との関わり方は、特殊な形態であり、科学で存在のすべてが明らかになる訳ではない。

 さらに、科学が社会に与える影響は間接的なものに留まる。なぜなら人々が生きる世界は対象化され、抽象化された世界ではなく、存在が人と共にあり、人が存在と共にあるような世界、しかも個別的、特殊的な存在が主役となる世界だからだ。

 一方、技術は時には科学と同様に存在を対象化、抽象化するが、より多くの状況において、技術は人と存在との多様な関わり方のほとんどすべてを引き受ける。多くの技術は、(特に初歩的なそれがそうであるが)存在と人が一体化している。たとえば松葉杖や眼鏡は身体と一体になっており、そこでは科学のような存在の対象化、抽象化は行われていない。それゆえ、技術は科学とは異なり、現実的、具体的であり、人々の生と社会の現実にそって多様な現れ方をする。

 科学は、存在を対象化、抽象化するという特殊な人と存在との関わり方においてのみ、存立し、展開しうる。そして、その成功は、何らかの技術を介して、あるいは、何らかの技術と関わることで、現実化する。科学の知は、技術が関わるモノにおいて初めて正当化され、力を得るとも言える。科学は知の世界に留まるが、世界はモノなしにはあり得ず、モノと関わる技術という接点を持つことで初めて意義を持つ。一方、技術は知とモノの両方と関わる。技術において知とモノとの統一が図られていると言ってもよい。それは存在=技術ということを意味するのではない。しかし、技術は存在を理解するうえで欠かせない。そもそも、科学が前提とする存在の対象化、抽象化を可能とする場を構築するのが技術なのだ。つまり技術が科学の前提となっている。それゆえ、科学の哲学は技術の哲学により基礎づけられる必要がある。だからこそ、技術の哲学が重要になる。

 ところが、科学の哲学が技術の哲学よりも遥かに盛んなのが現実だ。それは、哲学にとって科学が技術より重要だからではなく、技術を哲学的にどう取り扱えばよいか分かっていないことに起因する。しかし、ここで述べてきたとおり、技術の哲学の方が寧ろ科学の哲学よりも重要性は高い。この現実と対峙するために、哲学は技術を語る場と方法を開発しなくてはならない。そして、この問題こそが技術の哲学の第一の課題となる。


(H30/5/13記)


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