☆ 法と脳科学 ☆

井出 薫

 偽証罪はどのような時に成立するだろう。真実を語ることが法的に定められている場、法廷、国会の証人喚問の席上などで虚偽の証言したときが該当する。ただし、憲法に基づき何人も自己の不利益になる供述を強要されないから、証言を拒否することはできる。ただ虚偽を語ると罪になる。

 だが、虚偽を語るとはどういうことだろう。法律学では客観説と主観説の二つの考え方がある。決裁文書が改竄されているとする。証人が改竄されたことを知っていたとして、改竄されていないと言えば偽証罪になる。これはどちらの説でも変わらない。だが、証人が改竄はされていないと信じていて、改竄されていないと答えた時は客観説によれば(事実に反するため)偽証罪になり、主観説では偽証罪にはならない。逆に、改竄されていないと信じていて改竄されていると答えれば、客観説では偽証罪にならず、主観説では偽証罪になる。

 今では主観説が通説になっている。これは日常での「嘘」という言葉の使用と合致している。嘘とは事実と一致するかどうかではなく、自分が信じていることを言うかどうかで決まる。米国の首都がニューヨークだと信じている者が、米国の首都を尋ねられてワシントンと答えたら、事実と合致しているが嘘を吐いたことになる。

 だが主観説にも難点がある。証人が何を信じているかは厳密には外部からは分からない。状況証拠から信じていることを推測することはできる。しかしそれはあくまで推測に過ぎず確実ではない。たとえば、証人が以前、友人に改竄されたと話したことが分かったとしよう。そのことは証人が改竄の事実を認識していたことを示唆するが確実ではない。友人に嘘を吐いた可能性を否定できないし、証人喚問の場で極度の緊張の余り改竄の事実を一時的に失念したということもありえる。

 この難題を脳科学で解決できると考える者がいる。「証人はxだと信じている」ということは、「証人に何らかの脳神経系の状態yが存在する」と対応する。だから、脳科学を使って証人の脳状態(yであるかどうか)から、xであると信じているかどうかを判定することができる。これにより、偽証罪の主観説と客観説の対立を止揚して、より正確な偽証罪の判定ができるようになる。主観は外部からは観察できず何を信じているかを完全には知りえない。しかし脳状態は客観的なものだから、外部からも認識することができる。それに基づき虚偽の証言をしたか否かを正確に判定できる。脳科学に期待する者は、こういう風に考える。

 この考えは正しいだろうか。誰でもすぐに気が付くことだが、人の脳状態を正確に知ることはできない。正確に知るためには脳に細胞レベルのごく小さい精密なセンサーを取り付ける必要があるが、そのようなことは現実的には不可能だからだ。また、たとえできたとしても脳状態は常に変化しているから、証言の最中の脳状態を正確に認識することは事実上不可能と言わなくてはならない。つまり、現実的には脳科学を使って偽証罪を判定することはできない。しかし、この異論は技術的なものに過ぎず、原理的なものではないという反論があろう。つまり、技術的、現実的に不可能でも、「xと信じていること」が「脳状態y」と対応しているという思想自体は正しいから、原理的にはyの存在を知ることでxと信じているかどうかを判定することができるという訳だ。

 だが、本当に「xと信じていること」に対応するような脳状態yが存在するのだろうか。このような考えは自然科学至上主義、森羅万象が自然科学で記述され説明されるというドクマに毒された現代人の思い込みに過ぎないのではないだろうか。

 生きることの理由や意義を自然科学で説明できるだろうか。できない。自然科学は進化の過程で人という種が誕生したこと、それが様々な機能を有することを因果的に説明することができるに過ぎない。人という種が存在することの意義も理由も説明できない。ましてや個々人の存在意義については尚更説明できない。それは自然科学の対象外なのだ。

 「xと信じていること」は意義や理由とは異なり、自然科学の対象となりえると考える者もいるだろう。しかし、「xと信じる」という表現は、人の行為の理由を説明する根拠として使われる。たとえば「なぜ研究を続けるのか」と問われて、「それが自分の使命だと信じているからだ」あるいは「それは自分のためであり、皆のためであると信じているからだ」と答えることがある。信じるとは行為の原因ではなく理由を示す。それゆえ、それを物理的状態である脳状態に対応させることはできない。

 脳科学の知見は犯罪捜査や裁判で大いに活用されている。だがそれは法そのものや、その解釈や運用の仕方を決めるものではない。法には法固有の方法と解釈があり、それが脳科学に還元されることはない。


(H30/5/7記)


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