☆ 技術の哲学の論点 ☆

井出 薫

 技術の哲学を展開するために不可欠な論点が幾つかある。今後の検討のために、それを列挙しておこう。

 まず、技術という言葉は多義的で、多様な使用を持つということを理解することが欠かせない。技術に共通の普遍的な性格などなく、ウィトゲンシュタインの言葉を引用すれば、家族的類似性しか見いだせない。だから、技術を論じる場合は、多様な技術(発電などの巨大技術からスポーツ選手や演奏家の技術まで)を、その家族的類似性をなぞりながら検討する必要がある。

 つぎに、技術には、方法、技、背景となる理論、経験など知的な側面(知)と道具、機械、素材、ソフトウェアなどのモノ的な側面(モノ)の両面があることを認識する必要がある。スポーツ選手や芸術家の技術は、知のみでモノを欠くと言えなくもないが、鍛え上げた身体をモノとして抽象化することもできるし、また、技術という言葉の本来の使用から派生した使用方法として捉えることもできる。いずれにしろ、技術を論じるためには、知とモノの統一体としての技術という視点が欠かせない。これをもっぱら知として捉えると、科学と技術は同一線上にあることになり、技術=科学、または、技術=応用科学という単純化された図式でしか技術を捉えることができなくなる。実際は、技術は科学に還元できない。精神医学で使用される多くの薬物や治療法は、明確な科学理論に基づくものではなく、経験的に有効性が認められるだけに留まるものが多い。また、科学は普遍化と抽象化を求めるが、技術はむしろ個別、特殊的な具体的状況に適用できることが求められる。(注)
(注)「科学:抽象化、普遍化」、「技術:科学の具体化、個別化」、両者を合わせて科学技術という統一体をなすという考えがあるかもしれない。だが、科学理論に基づくとは言えない技術が多数あることが、このような統一が現実的なものではないことを示す。

 技術は人の社会的な行為と共にあり、それなしには意味をなさない。その点で、たとえ人類が滅んでもその理論の正しさは変わらないと主張できる科学とは異なる。たとえば、パソコンは現代社会において初めてパソコンであり、羊や狼の群れにそれを与えても、パソコンではなく不要物でしかない。タイムマシンで過去に行き、江戸時代に暮らす人々にパソコンを与えても、電気も電池もないから作動しないし、それよりなにより人々がパソコンという存在を理解できない。つまり技術はそれにふさわしい社会的な場においてのみ、技術となりえる。

 人の行為と関わることから自然と導かれることであるが、技術には常に目的がある。科学にも世界を理解するという目的があるが、西洋近代科学が興隆して以来、科学理論そのものは通常、目的概念を含まない。一方、技術はその知とモノにおいて目的を含む。目的論的な思考は便宜的には科学理論の構築に役立つが、科学そのものからは目的は排除される。近代科学は目的を排除することで誕生したとも言える。しかし技術は目的があって初めて技術であり、目的を欠く技術は技術ではない。パソコンと操作マニアルがあっても、それを使う目的がなければ、技術にはならない。

 技術には、火、杖、矢、(情報伝達の道具としての)ほら貝など原初的な技術から、発電、自動車、ミサイル、インターネットなどの巨大で高度な技術まで様々な段階の技術がある。たとえば、これら両極の間には、化石燃料、自転車、銃、電信などがある。このような原初的な技術から、中間的なそれ、巨大で高度な技術へと展開する過程で、技術は社会システム化していく。杖には、大規模な専用の社会インフラはいらない。自転車ではある程度整備された道が存在することが望ましい。しかし幅の広い舗装道路や交通信号や道路交通法までは必要ない。だが自動車では、舗装された幅広の道路、交通信号・標識、道路交通法などの法整備が必要になる。また、同時にインフラや制度の整備が進むことで自動車は初めて本格的に発展普及する。さらに、自動車の普及は人々の生活習慣や思考方法など文化の領域にも巨大な影響を与え、また文化の変容が自動車の受容と普及に繋がる。つまり、自動車の段階に至ると、技術は社会のあらゆる領域で大きな変化を促し、社会システム化していく。社会の中に技術システムが誕生すると言ってもよい。

 たとえば発電網やインターネットは社会の隅々にまで広がり、また社会の様々なインフラや制度や文化に支えられることで進化し、維持されている。これら技術は社会システムをなす。このように技術はその進化とともに社会システム化し、そのことで社会を変容させる最重要要因の一つとなる。マルクスは生産力に規定される生産関係が歴史社会の現実的物質的土台で、その上に政治や法の領域があり、さらにその上にイデオロギー諸形態があると考える。このマルクスの図式が現代において一定の現実性を有するのは、技術の社会システム化が進んだからだとも言える。生産力の重要な要素である技術が社会システム化することで社会の多くの領域の変化を促すことになるからだ。

 さらに、社会システム化するに連れて、原初的な技術では統一されている知とモノの分離が進む。それに伴い、知の専門家と、モノの専門家が分かれてくる。大学教授と、発明家、設計者、製造、運用、修繕など現場サイドの技術者との分離がその一つの事例として挙げられる。また、知とモノの分離により、モノの支配が強くなる。この世界は物質世界であり、知の思惑通りにはいかない。知の統一性は、モノの成功(商品が期待通りに動作することなど)で初めて保証される。

 さらに技術が原初的なそれから、より高度な段階へと進むことで、作る・使う知から、観察し抽象化・理論化する知へと新しい知が派生する。それが数学や近代的な物理学、生物学へと繋がっていく。たとえば杖ならば経験的な作る知と使う知で十分だが、自転車になると初歩的な幾何学や力学が必要となる。さらに、自動車となると近現代科学(力学、化学、電磁気学、量子力学、熱統計力学など)が不可欠となる。

 このように、技術の哲学を展開するときには、多義性・多様性、モノと知の二面性、人の行為、目的の存在、技術の高度化に伴う社会システム化、モノと知の分離、モノの優位性、近代科学と数学の発展、これらの論点に着目し、議論を展開することが必要となる。このような立場を採用することで初めて実りある技術の哲学や技術史論が可能となると考える。


(H30/4/28記)


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