☆ 嘘と言語ゲーム ☆

井出 薫

 今日はエイプイルフール、嘘を吐いてもよい日とされる。しかし、嘘を吐くとはどういうことか定義するのは難しい。

 事実に反することを言っただけでは、嘘を吐いたことにはならない。「日本の首相は誰か?」という質問に「石破だ」と答えても、嘘とは限らない。本人が石破だと信じているかもしれないからだ。当人が真実を知っており、それにも拘わらず真実に反したことを言った時に初めて嘘を吐いたことになる。

 しかし、本人が真実を知っているかどうかを決めるのは難しい。石破だと答えた者が、日本の中学の社会科教師だったら、嘘を吐いた可能性が極めて高いことになる。日本の社会科の教師が日本の首相が誰であるかを知らないということは普通ありえないからだ。しかし、それは蓋然性の高い推測に過ぎず、確実ではない。勘違いをしている可能性は否定できない。また強いストレスを受け頭が混乱し誤ったことを口走ってしまったという可能性も否定できない。そういう場合、嘘を吐いたとは言えない。

 たとえ外部から分からずとも、本人は嘘を吐いたかどうかを知っている、という意見もあろう。だが、それも疑わしい。頭が混乱しているときには、本人も嘘を吐いたのか、間違ったことを言ったのか判断できない。

 脳科学の観点から嘘かどうかを判断できるのではないか、と考える者もいるかもしれない。だが、嘘の脳科学的基盤を解明するには、まず嘘を吐くとはどういうことかの定義を与えることが必要で、それなしには、脳科学的な研究は出来ない。それゆえ、脳科学は嘘の定義を決めることはできない。嘘の定義が決まったとき初めて脳科学的な研究が始まる。

 このように嘘を明確に定義することはできない。ウィトゲンシュタイン的な表現を用いれば、ただ、嘘という言葉を使った言語ゲームが存在するだけだということになろう。しかし、カントが嘘を厳しく戒めているように、哲学や宗教においては、嘘は極めて重大な罪であり、それは古代より文学の主要なテーマの一つだった。それゆえ、言語ゲームの一つに過ぎないという訳にはいかないと思われるかもしれない。だが、嘘はエイプリルフールのようなジョークにもなる。哲学や宗教における嘘と、エイプリルフールのようなジョークとしての嘘とは違う言語ゲームの中にあると考えるべきだろう。


(H30/4/1記)


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