☆ 存在を問う ☆

井出 薫

 存在とは何かと問うのが哲学の第一問題だとハイデガーは言う。しかし、存在を問うとはどういうことだろう。

 存在とは何か?一つの答えは、存在とは言葉であるというものだ。ハイデガーも言葉は存在の住処であると述べている。だが、この答えに多くの者が反発する。「存在は言葉だって、そんなことは当たり前だ。そうではなく、存在という言葉で意味しているものが何かということが問題なのだ。」と。

 しかし、問題はそう簡単でない。太陽や月ならば、この反論は有効だろう。月という言葉と月そのものは違う。太陽という言葉は太陽そのものとは違う。だから、言葉ではなく、言葉が指し示す者を問わないと意味がないと論じることができる。だが、存在については、このような議論はできない。月は、「あれが月だ」と指し示すことができる。太陽も同じ。しかし、存在を指し示すことはできない。机を指差し、「あれは机だ」と言うことで、机という言葉と机そのものとは違うことを明らかにすることはできる。しかし、存在を指し示すことはできないし、対象との関連性において説明することもできない。

 確かに、存在を存在する者(存在者)と解すれば、月、太陽、机などの個別の存在者の集合体として存在をイメージすることはできる。しかし、ハイデガーが指摘するとおり存在と存在者は違う。そして、問うべきは存在であり、存在者ではない。なぜなら、存在を暗黙の裡に了解することを通じて、私たちは世界と向き合っているからだ。(注1)
(注1)ハイデガーによると、古代ギリシャ以来の西洋形而上学は、存在と存在者の差異を看過し、存在とは何かという問いを、存在者の全体はどのようになっているかという問いにすり替えた。存在者全体の性格を問うことは、月、太陽、机など個別の存在者の集合体の性質を問うことに等しい。たとえば世界は物質(唯物論)か精神(唯心論)かと問うことは、存在者全体の性格を問うことに等しい。だが、存在者全体の性格ではなく、「存在」そのものを問うことこそが、根源的な問いをなす。存在をどう了解するかで、存在者の在り方は変わる。

 それゆえ、存在とは取りあえず言葉であるしかない。存在という言葉の対象を問うことができる、それを問うことが重要だという常識は通用しない。(注2)
(注2)感情(たとえば愛情)も月や太陽のように指し示すことはできない。しかし、愛は振る舞いを通じて不完全だが、その意味を理解することができる。形容詞や接続詞なども同じことが言える。つまり、月や太陽と同様に、感情、形容詞、接続詞などはその対象を問うことが意味をなす。だが、存在はそうはいかない。それを何らかの対象を使って説明することはできない。

 しかし、存在とは言葉だという説明は答えになっていない。それは正解だが、無意味な正解だと言える。存在を言葉に置き換えるにすぎないからだ。さらに、存在は言葉だとしても、言葉を超える言葉でもある。言葉を話すことも理解することもできない幼児や動物でも、何かに驚き、何かを恐れ、何かを喜ぶ。何かを知ることもある。幼児や動物も存在を感じている。それゆえ、存在は普通の言葉に還元することはできない。

 では、存在をどう問い、どのような答えを期待するべきなのだろう。ハイデガーは、生涯、この問いを問い続けた。しかし、解答に至ることはできず、晩年には哲学の限界を示唆し、哲学とは異なる存在の思索が必要だと論じるようになる。それは、存在を問うことが本質的な重要性を持つにも拘わらず、存在を問うことが不可能であることを示唆する。

 では、どうすればよいのか。論考のウィトゲンシュタインのように、語りえぬことには沈黙するべきなのか、それとも後期ウィトゲンシュタインのように存在を言語ゲームという観点から解剖するべきなのか。しかし、いずれも満足いく結論は得られない。論考的な立場では、ただ謎が残されるだけに終わる。言語ゲームでは言語の外にでることはできない。

 存在は、最初の問いとして立てられる。しかし、あらゆる問いに答えが与えられたとき初めて、最後の答えとして現れる。それまで、私たちは、存在への問いが最初の問いとして在り、また常にあらゆる問題がそこに通じていることを意識しながら、個別の諸問題、たとえば認識や倫理の問題と取り組むしかない。


(H30/3/25記)


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