井出 薫
機械とただの道具はどこが違うのだろうか。マルクスは、発達した機械には、原動機、作業機、作業機に動力を伝達する伝達機構、この3つの部分が存在すると言った。マルクスの定義を援用すれば、自動車は機械、自転車はただの道具ということになろう。自転車には原動機がなく、足でペダルを踏まない限り動き続けることはできない。 機械とただの道具の境界は恣意的で、言葉の定義の問題に過ぎないと思われるかもしれない。ゼンマイ式の時計はただの道具か、それとも機械か?電池式の時計はどうか。一意的な答えを与えることは難しい。ゼンマイ式の時計は、ゼンマイを原動機とみることもできれば、ゼンマイを巻く人の手の動きを動力源とみることもできる。前者なら機械となるし、後者ならただの道具となる。それゆえ、物理的な特性に基づき、機械と道具の境界を確定しようとすることはあまり意味がない。 しかし、自動車と自転車では、原動機があるかどうかという道具の構造に留まらない決定的な違いがある。自転車は整備された道路ではなくとも、山道などでも走れる。自転車は自動車ほど速くはなく大きな事故を起こすことは少ない。それゆえ、自転車のために特別な道路を作ったり法整備を進めたりする必要はない。一方、自動車はそれを普及させ、その能力を十分に活かすためには舗装された道路が欠かせない。また、運転のルールをしっかりと決めないと人命に関わる事故が多発する。つまり、自動車は、舗装された道路や給油所など物理的なインフラ、また道路交通法や車検制度など新しい法制度を要請する。自動車は、単独の物に留まることなく社会的なシステムを構成する。この点が自動車と自転車の決定的な違いになる。そして、このことから、機械を、原動機を持つ道具という物理的な定義ではなく、その物自身を超えて社会的なシステム(人々の新しい行動様式、様々な分野での新しいインフラや法制度など)を構成する道具と定義する道が開けてくる。 この観点を取ると、時計は精度が上がり社会にとって不可欠な存在となるとき、ただの道具から機械へと転化するとみることができる。精度のよい時計を使って、人々は計画を立てて行動する。どこの家でも、店でも時計は欠かせない存在となる。さもないと他人とのコミュニケーションが困難になる。さらに、異なる場所にある時計を合せるために、標準時を定め、それを監督する機関が必要となる。こうして、精度が良く、色々な場所で使える便利な時計は、人々の新しい行動様式を作りだし、また標準時のための技術や法制度を生み出す。それは時計という物自身を超えて社会的なシステムとなる。そのとき、時計はただの道具ではなく、機械となる。 この定義を採用すると、原動機があるかないかはどうでもよいことになるのだろうか。それは違う。原動機がないと長時間安定的に稼働することができない。ゼンマイ式の時計で、5分に一度、ゼンマイを巻きなおす必要があるとしたら、それは余りにも手間が掛かり、精度も悪く、普及することはない。それは特別の用途や趣味で使われるただの道具に留まる。ゼンマイが精緻で強力で一度巻けば長く正確に動くことで初めてそれは社会的なシステムを構成しうる。そして、そのとき、ゼンマイはマルクスの言うところの原動機に該当する。一方、先に述べた手間をとり精度が悪い時計では、絶え間なくゼンマイを巻く人の手が実質的な動力源であり自転車と同等の存在に留まる。そのような時計には原動機はないと言ってよい。 道具が、道具自身を超えて社会的なシステムを構成するに至るためには、原動機が欠かせない。なぜならそれを欠く場合、常時人手の介入が必要となり、普及には限界があるからだ。マルクスが見抜いたように、原動機を持つ機械の登場は、資本主義誕生の強力な推進力となった。機械を社会的なシステムを構成する道具と定義するとき、それは原動機を持つ。 それゆえ、本稿で述べた機械の定義は、マルクスのそれと実質的に等しい。だが、機械の登場の歴史的な意義を研究するためには、本稿の定義の方がより適切であると考える。 了
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