井出 薫
壁にアインシュタインの重力方程式が書いてある。知る人ならばそれが分かる。私たちの多くは、それに詳しくない者も、それが数式であることは分かる。そこに、「いや、それは誰かが悪戯か練習で描いた絵に過ぎない。」と言う者が出てきたら、どうだろう。事実、ウィトゲンシュタインは、アインシュタインの重力方程式を例に出した訳ではないが、同じようなことを考えた。 ほとんどの者は、ウィトゲンシュタインの議論は屁理屈に過ぎず意味がないと考える。絵が偶然にアインシュタインの重力方程式になるなどということはありえない。それは、チンパンジーがでたらめにパソコンのキーを叩いたら、ジョイスの「ユリシーズ」と同じ文章になったと言うに等しい。ウィトゲンシュタインは論理的な可能性と現実的な可能性を(意図的に)混同し、現実には不可能だが論理的に可能な例を取り上げて、哲学的に深遠なことを言っているように見せかけている。こういう批判がなされる。 確かに、この批判は正しい。アインシュタインの重力方程式を全く知らない者が、絵の構想を練り、それを描いたらアインシュタインの重力方程式と同じだったなどということはない。そんな事例を引用しても、何か意味があることを導けるわけではない。 しかし、ここで問題が残る。私たちは、なぜウィトゲンシュタインの考えを間違っていると言えるのだろう。それは私たちがアインシュタインとその業績について、何らかの知識を有しているからに他ならない。もし原始人が壁に書かれた重力方程式を見たらどう言うだろう。当然、それをアインシュタインの重力方程式だと見抜くことはできない。おそらく原始人はそれを絵と理解するに違いない。 何が常識的な判断かは、時と場所により異なる。そして、常識的な判断が間違っていることはよくある。ところが、そのことを私たちはしばしば忘却する。そしてウィトゲンシュタインの議論を屁理屈に過ぎず意味がないと否定する。確かに、ウィトゲンシュタインの議論は屁理屈に過ぎないかもしれない。アインシュタインの重力方程式はアインシュタインの重力方程式であり、宇宙全体で成立する普遍的な真理と考えてよい。だが、私たちはそれについてどれだけのことを知っているのだろうか。よく理解している者など数えるほどしかおらず、大多数の者はアインシュタインや現代物理学の権威に追従して、それを普遍的な真理だと信じているに過ぎない。さらに、私たちは無数の常識の中で生きているが、その多くは憶測や迷信に過ぎない。半世紀前、筆者の子ども時代には、「マラソン最中には水を飲んではいけない。身体が疲れるからだ。」、「うさぎ跳びは足腰を鍛えるために良い方法だ。」などと、ほとんどの者が信じていた。 私たちは昔の者たちの信念や常識を迷信だと笑う。だが、同じように、私たちの常識の多くは、将来、臆見や迷信に過ぎないと否定されるようになる。重力方程式のように将来も正しいとされるであろう知識についても、根拠なく信じているに過ぎない。 ウィトゲンシュタインの哲学は、何か新しいことを教える訳ではない。しかし、その警告はしばしば、賢いと自惚れている現代人が陥りがちな錯誤を暴き出す。それゆえ、それは依然として現実的な意義を持っている。 了
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