☆ ものの優越 ☆

井出 薫

 遥か昔、人は自然に翻弄されていた。人の寿命は食糧、感染病、地震などの自然災害で決まった。自然的存在としての「もの」は常に人を超え、人を支配していた。

 人はものの支配から逃れようとして、様々な工夫をした。自然環境が過酷だった地域や時代、あるいは何らかの文化的背景の下、人々は様々な技術を生み出し、ものの支配を緩和しようとした。農業、都市などはその典型と言ってよい。

 特に、西洋が近代化し産業革命が起きて以来、技術は急速に進歩し、人間の力は巨大化し、自然の支配力は低下した。20世紀以降、技術進歩は加速し、人口は急増し寿命は大幅に延びた。技術により、人間は自然としてのものを克服したかに見えた。

 だが、そう簡単には事は運ばない。技術の発展で、豊かになり人々の暮らしは快適になった。自然の驚異に怯える必要性は薄れた。その一方で、今度は人工物(機械、ソフトウェア、化学物質など)としての「もの」に人々は強く拘束されるようになる。今や、技術の産物なしには人は一日たりとも暮らしていけない。

 このことをこう表現してもよいかもしれない。自然としての「もの」の支配から脱却するために人は技術を生み出した。それは自然としてのものを克服したかのように見えた。しかし技術により外的なものを克服した代償として、技術的産物である「もの」による支配が強まった。これは、外的なものの支配が内部化して技術的産物の支配へと変貌したことを示す。もの、そしてその内化したものは常に人を優越している。如何に科学や技術が発展し、社会制度が改善されても、そこから逃れることはできない。


(H30/1/14記)


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