☆ 哲学の難しさ ☆

井出 薫

 哲学の難しさは、何を論じているのかが分かり難いという点にある。言葉、概念、対象、この三者は別のものだと一般には思われている。目の前の机は私の意志に関わりなく実在する対象であり、それを私は知覚し、そこから思考の要素としての概念を生み出す。そして、その概念を言葉で説明する。対象、概念、言葉は互いに連関しているが、それでも、それぞれが自律した存在だと見ることができる。だが、まさにこの点で議論が混乱する。つまり、対象を論じているのか、概念を論じているのか、言葉を論じているのか、往々にして、そこが分からなくなる。哲学は徹底的に言葉に拘る。それしかないとも言える。哲学にも科学に類似した実験を導入しようとする動きもあるが、そのような試みに意義があるかどうか疑問で、哲学は言葉という次元で思索する学だと見た方が良い。だから、どうしても、この三者の混同という隘路から抜け出すことができない。なぜなら言葉を通じてしか、対象も概念も表現ができないからだ。だから、対象を論じているつもりで、いつの間にか言葉の分析になっていたり、言葉の分析をしているつもりで、こっそりと実在としての対象が導入されていたりすることが避け難い。ウィトゲンシュタインが、哲学を疑似問題、あるいは言葉の使用における混乱などと見なしたのも一理ある。

 哲学者も19世紀くらいまでは、このような三項図式を暗黙裡に使用していた。カントは対象そのもの(物自体)は認識できず、ただ現象だけを認識できるとした。カントは単純な三項図式を使ってはいない。しかし、物自体、現象、認識という三項を分離して見るという発想はそのまま継承されている。だが、それでは先に述べた難題を解消できない。

 この難題を克服するために、三項図式を批判して新しい見方を提示したのが、19世紀後半から20世紀前半に掛けて活躍したフレーゲとフッサールだ。フレーゲの思想はラッセル、ウィトゲンシュタインなどを経て論理実証主義、分析哲学などへ継承され、現代では英米哲学の主流派を形成している。一方、フッサールの現象学は、ハイデガーの存在論、超越論哲学やフランスを中心とするポストモダニズムへと継承され日本で最も人気のある哲学思潮となっている。廣松渉など一部のマルクス主義者もフッサールには大きな影響を受けている。フレーゲとフッサール、二人の哲学は大きく異なるが共通点がある。フッサールは純粋意識に現れる現象から全てを始め、対象、概念、言葉という図式を二次的なものとして、哲学の出発点においては排除する。フレーゲは対象も概念も記号としての言葉から離れて存在しないとし、言葉を含む記号体系の中で、対象や概念が意味を持つと考える。

 二人の思想は大きな影響力を発揮し、現代哲学においては、対象、概念、言葉という三項図式を根源的なものとして考える哲学者はほとんどいない。対象があり、それに関する観念や概念が生成され、それに言葉を当てはめるというような図式を思い描く者は、哲学の素人だと言われてしまう。現象や言葉こそ出発点であり、対象とか概念とかはそこから構成されたものだとするのが、現代哲学の基本的な姿勢とされている。

 確かに、これにより問題は解消される。三項図式に悩まされることなく、現象や言葉という次元で徹底的に探究することで哲学的諸問題が解明できるようになる(と思われた)。

 だが、本当に、それで問題は解消されたのだろうか。たとえ、現象や言葉から始めても、三項図式を導入せざるを得ないのではないだろうか。目の前の机は確かに実在する。私がいなくてもそこに実在する。目の前の机とそれを表現する言葉とは同一ではない。概念と言葉は一元論的に議論することができても、対象の存在を否認することにはやはり無理がある。「政治」、「経済」、「技術」、「教育」、「知識」などは実在性がなく、確かに概念のみならず対象もまた言葉から生み出されるものと考えることができる。しかし、実在性のある多くの存在者は私たちから独立した対象という性格を失うことはなく、またそのことを無視することもできない。そのため、現象や言葉から出発しても、結局のところ、対象、概念、言葉という図式から完全に逃れることはできない。そして、そのために、この三者の何を論じているのか分からなくなるという難題は解消されない。そのため哲学の難しさは緩和されていない。いや、寧ろ、常識的な対象、概念、言葉という図式を排除したために、哲学は却ってまずます分かり難くなっている。

 なぜ、このようなことになるのか。結局のところ、実在性を持つ物が存在という現実が、哲学の隘路を解消しようとするあらゆる試みを無にしてしまう。対象としての物は、現実に、人と知に先立つ。そして現実を思考と哲学で解消することはできない。現代哲学の最大の課題は、おそらく、この実在者としての物をどう把握すればよいかを解明することにある。


(H29/12/17記)


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