☆ 技術という言葉と技術の探求方法 ☆

井出 薫

 哲学者の中村雄二郎は、技術は哲学最大の難問の一つと語っていた。確かに科学の哲学では相当の成果があり科学哲学という学問分野が成立しているのに対して、技術の哲学はこれと言った業績がない。そのために、未だに、ハイデガーの「技術への問い」(1954年)が参照される。ハイデガーの議論は興味深いが、技術哲学という領域をなすほどのものではない。現代において、技術の重要性は決定的なものがあり、技術を哲学することは極めて重要だと思われるが、なぜ進展を見ないのだろうか。

 理由は色々と挙げられるが、その一つは技術という言葉の多義性、多様性にあると思われる。

 日本語の「技術」は、英訳する際、文脈によって、technology、technique、skill、artなど様々に訳される。同じことは英語にも言えて、technologyは技術、技術学など文脈によって訳し分けられる。先に挙げた「技術への問い」の「技術」は、原書(ドイツ語)ではtechnikだが、英訳版ではtechnologyになっている。mechanical artsは機械技術と訳されるが、日本人の感覚では技術そのものに近い。「技術と道具」という表現では技術は道具を含まず知や技を意味するが、「道具こそが技術の核心」、「技術とは道具である」などという表現もあり、技術と道具の関係は曖昧なままになっている。スポーツや芸術で要求される技能(skill)を技術と呼ぶこともある。企業経営の技術などという表現も使われる。さらに、「それは技術的な問題に過ぎず、重要ではない。」というような表現が使用されることもある。そこでは「技術」には「機械的な手続き」というような含意がある。また日本では技術=科学技術かつ科学=自然科学という思いが根強く、貨幣と貨幣制度を技術として捉えることは少ない。しかし貨幣は人間社会に不可欠な財の交換のための最良の技術であり、資本主義登場に欠かせない。それゆえ、貨幣もまた技術として捉えるべきだろう。

 このように技術という言葉の意味は多様で、一義的な定義は極めて難しい。どのような定義をしても、そこに収まらない技術がある。辞書や辞典を見ても定義は一定しない。

 それでは、どのように考えればよいのだろうか。筆者は、ウィトゲンシュタインに倣い「(ゲームと同じように)様々な技術に共通の本質などはなく、ただ家族的類似性が見いだされるだけだ。」と捉えるのが適切だと考える。技術に共通の本質がないことが技術の哲学を不可能にすることはない。むしろ、家族的類似性を成り立たせる背景を明らかにすることにこそ哲学の役割と意義がある。もし共通の本質があるのであれば、科学的、分析的な手法でそれを抽出することができるだろう。だが、家族的類似性しかないとすると、複雑に絡み合う糸の塊を丹念に解きほぐし、その実相に迫る、それを可能とする方法が必要になる。

 では、具体的にはどうすればよいのだろうか。闇雲に技術という言葉が使用される現場を寄せ集めて分析しても、解決の糸口は掴めず、ただ家族的類似性しかないことを再確認するだけに終わる。それゆえ探求の出発点を見つけないといけない。出発点は幾つか考えられる。たとえば棒を持って叩く、杖を使って歩く、火を起こすなどの最も原初的な技術から出発する方法、最も現代的な技術、たとえばバイオテクノロジーやインターネットなどから始める方法、産業革命の出発点になった蒸気機関から始める方法など、様々な出発点が考えられる。しかし、後の二つはいずれも大規模な技術であり、関わる者や財が多岐に亘り、出発点としては相応しくない。そこで、最も原初的な技術から始めるのが良いだろう。現代においても、杖や傘、鉛筆とノート、金槌や鑿などの原初的な技術は広く使用されている。また巨大で複雑な技術もこのような原初的な技術の組み合わせ、発展した姿と言えるだろう。だから、原初的な技術に現象学的な接近をして、技術の特徴を記述し、そこから近現代の巨大で複雑な技術の議論へと進むのが適当だろう。これにより、技術の家族的類似性の背景が解明され、技術と社会、技術と自然、技術と科学、技術と芸術、技術の倫理などの技術哲学の主要課題を探求する土台が築かれると期待される。


(H29/11/26記)


[ Back ]



Copyright(c) 2003 IDEA-MOO All Rights Reserved.