☆ 社会構築主義 ☆

井出 薫

 社会構築主義(Social Constructionism、社会構成主義と訳されることもある)とは、哲学、社会学、心理学、教育学、法学、科学論、技術論など多方面で使用される思想で、分野により、論者により、その意味は微妙に異なる。だが、社会や自然に対する認識(社会的意識、信念や知識、概念、思想、理論など)は、人間の意識から独立した客観的な実在やその性質をそのまま映し出すものではなく、社会的に構築されたものだと考える点は共通している。さらに、この思想に賛同する論者には、認識対象である存在そのものが社会的に構築されたものと考える者もいる。そういう者は、時には、人間の意識から独立したありのままの実在など存在しないと主張する(反実在論)。極端な立場では、自然や自然現象なども社会的に構築されたもので、社会から独立した実在ではないとされる。

 カントの哲学思想も、認識を構築されたものと捉える点で、社会構築主義に近いところがある。カントによれば、私たちの認識は対象をそのまま反映したものではなく、感性・悟性・理性+構想力・判断力という理性構造に基づき構築されたものだということになる。ただしカントの場合は、理性とは人間という種が先天的に有している機能とされ社会性は重視されていない。また、カントは認識の対象そのもの(「物自体」と呼ばれる)を認識不可能としたが、物自体の実在は疑えないとした点で、対象そのものの実在を否定する極端な社会構築主義者とは明確に一線を画する。それでも、カントを社会構築主義の先駆者とみなすことができる。

 科学哲学における社会構築主義がクーンのパラダイム論で、質量のような、一見したところ、人間の意識から独立した客観的な概念と思えるものですら、20世紀前半の古典物理学から現代物理学へのパラダイムチェンジを通じて、その意味するところが変容しており、客観的なものではないとされる。つまり古典力学とアインシュタインの相対性理論では、質量の意味するところが異なっていると言う訳だ。

 社会構築主義は、弁証法という媒介者を伴うとは言え基本的に認識を客観的実在の反映と考える教条主義的マルクス主義に対する疑念が広がるとともに興隆した。それゆえ、これをポストモダニズムの一流派として考えることもできる。実際、ポストモダニズムに特徴的とされる(独立した主体と客体という意味での)二元論批判、理性中心主義批判、反実在論、相対主義的傾向などを社会構築主義も分かち持っている。そして、社会構築主義は、先に述べたとおり、現代においても広い領域で多くの支持者を持っている。

 だが、あらゆる哲学思想がそうであるように、社会構築主義にも多くの難点がある。古典力学と相対論では質量の意味が異なるとクーンは主張するが、この主張の根拠は乏しい。20世紀後半を代表する物理学者の一人、ワインバーグはクーンの考えをきっぱりと拒否する。ワインバーグは、科学者の共同体とその活動が社会的に構築されたものであることは認めるが、成功した物理理論そのものは客観的なもので、社会的に構築された相対的なものではないと反論する。ワインバーグの批判は常識的なものに過ぎないが、やはり正しいと思われる。クーンは理論が形成され、それが支持されていく過程での社会的な影響と人々の思想の変化を過大視し、正しい理論が持つ普遍性と実証性を見損なっている。量子論に基づき、トランジスタなどの半導体部品、レーザーや発光ダイオードなどの発光素子と受光素子、CTやMRIなどの医療機器、電子顕微鏡、原子力など様々な新しい技術と製品が誕生した。物理理論そのものを社会的に構築されたもの、相対的なものだとすると、様々な現代技術とそれと密接な関係を持つ物理理論が、良くも悪くも巨大な現実的な力を有していることが説明できない。量子論を信じようと信じまいと、MRIはその者の脳内の様子を正確に描き出す。

 この点は、科学哲学以外の分野での社会構築主義についても当て嵌まる。他の分野では、物理学のような確立した学はなく、社会構築主義の有効性は高くなる。社会現象は人間の活動が生み出したものだから、それらすべてが社会的に構築されたものと考えることができる。マルクス主義者の中には、生産力とそれに規定された生産関係という構造をあたかも自然の実在と同種の実在であるかのように論じる者がいるが、正しいとは言えない。生産力は、それが社会に受容され社会構造の一部になることで初めて生産力となる。江戸時代にパソコンを持ち込んでも、それがパソコンとして機能することはない。しかし、だからと言って社会構築主義が正しいということにはならない。社会の出来事の多くは、それが人間の社会的活動の所産であるにも拘わらず、人間には制御できない。後から考えれば別の道があったことが分かるとしても、その場にいる当事者には他の道はみえていない。また、人間の社会的行動の多くは無意識的に遂行される。それゆえ、多くの場面で、社会的な現象が、あたかも客観的な何かに人々が支配されているかのごとき様相で生じる。安くて高性能の新機種が登場すると、古い機種は自然と消滅する。

 尤も、必然的に見える行為や無意識的な行為そのものが社会的に構築されたものだと言うことはできる。だが、そういう説明は、慎重に吟味しないと、社会とは社会的に構築されたもののことを言うという無意味なトートロジーに陥る。無意識が社会的に構築されていると言うのであれば、そのことを具体的に説明する仕組みが必要になる。だが、そのような試みが上手く行くかどうかは疑わしい。なぜなら、社会的に構築される対象と構築するための概念は、共に、同じ社会構築主義的な平面にあるからだ(いずれも社会的な概念)。それゆえ、説明すべきものが暗黙の裡に前提とされることが避け難い。つまり、社会構築主義は、その立場を徹底すると、説明されるべきものが説明のために使われるという自己言及的なパラドックスに陥る。一方、自然、社会体制、生産力などを自明の前提として議論を展開する唯物論的な立場を採用すれば、パラドックスは避けられる。もちろん唯物論的な立場にも難点が多く、だからこそ社会構築主義という立場が生まれた。しかし、何らかの客観的実在を前提として導入することなしに、理論を構築することは現実的には難しい。先に示した通り、物理現象を説明する物理理論そのものに対しては、自然という客観的・唯物論的実在を導入することなしには、様々な科学や技術の産物が社会に溢れている現実を上手く説明できない。物理学に限らず、自然科学の対象については全て同じことが当て嵌まる。社会科学の対象は、自然の対象とは異質で、人間の活動なしには存在しえないが、それでも何らかの(社会的に構築されたものではない)前提を導入する必要性が生じると思われる。ミクロ経済学では、価格や生産量がそれに該当する。価格や生産量という概念は社会的に構築されたものであるが、価格や生産量という概念が表現する対象そのものは、長い歴史を経て生み出されたものであり、社会的に構築されたものと捉えるより、歴史的実在物として経済学理論の前提とした方が良い。

 また、社会構築主義はある意味で、その意に反して、理論至上主義に陥っているとも言える。社会構築主義は決して理論が現実を作り出すなどと主張している訳ではない。逆に、知識や信念が、共同体における社会的活動を通じて形成されると述べている。しかし、それにも拘らず、出発点となる社会的な活動は理論的な抽象物として現れるしかない。なぜなら、社会構築主義によれば、加工されていないありのままの現実なるものは存在しないからだ。それゆえ、出発点も到達点も理論しか存在できない。マルクスとエンゲルスは、その著「ドイツ・イデオロギー」で、当時のドイツの観念論哲学者を、重力の法則を否定すれば溺れて水死する者はいなくなると考える者に等しいと皮肉っている。この皮肉は現代の社会構築主義にも当て嵌まるように思える。

 しかし、このような難点があるとは言え、社会構築主義には、方法論的に大きな意味がある。概念、信念、知識、技術などは社会の中で生まれ、社会で受容されることで初めて意味が与えられる。それは、教育や共同生活、産業活動の中で社会的に継承されていく。社会構築主義はこの現実に即した発想と方法を持っている。特に技術を論じるときに社会構築主義が有益になると思われる。技術は科学のような学でもあり、また実践知でもある。知識や方法という主観的な面があれば、機械や道具という客観的な面もある。その発展普及、利活用の方法は政治経済や文化と切り離せない。技術という言葉は様々な場面で使用され、多義的であり、それと繋がる社会的な領域は極めて広い。さらに、無数と言ってよいほど多種多様な技術があり、単一のモデルで技術を理解することは難しい。技術論では、社会構築主義な視点で、社会の様々な領域からの多面的なアプローチが必要となる。

 他のあらゆる思想と同様、社会構築主義には欠点があり、限界がある。そのことを忘れないようにすれば、その価値は高い。


(H29/9/10記)


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