☆ 記号としての貨幣 ☆

井出 薫

 アリストテレス、マルクスなど多くの思想家が「貨幣とは何か」を論じてきた。マルクスは、資本論の冒頭、労働価値説に続いて、価値形態論を展開し貨幣の謎を解いたと宣言した。しかし、マルクスの価値形態論は不十分なものに終わっている。

 マルクスは、単純な価値形態から始める。それは「20エレのリンネル=1着の上着」という形態を意味する(この式は「20エレのリンネルは1着の上着に値する」と読む)。これは具体的には、20エレのリンネルの保有者がそれを1着の上着と交換したいと考えている状況を示す。ここでマルクスは、20エレのリンネルは相対的価値形態にあり、1着の上着は等価形態にあると論じる。重要なことは、20エレのリンネルと1着の上着が非対称な位置にあるということだ。20エレのリンネルの保有者にとって、それは使用価値ではなく、自分にとって必要な物と交換するための手段でしかない。この交換のために必要な価値をマルクスは交換価値として現象する商品価値あるいは(単に)価値と呼んでいる。これは使用価値と異質な価値であり商品の価値の二重性を表現するものとされる。

 つまり単純な価値形態は、20エレのリンネルの価値を、1着の上着の使用価値で表現していることになる。これは、重さを長さで表現するようなもので矛盾を孕む。1メートルは1キログラムに値する(1メートル=1キログラム)と言っても意味がない。単純な価値形態は市場での交換の最も抽象的で基本的な形態を表現するが、そこには矛盾があることになる。このことは、具体的な事例で表現すると、20エレのリンネルの保有者が1着の上着と交換することを望んでいても、1着の上着を保有している者は別の物と交換することを欲しているかもしれないということに相当する。自分が保有している物と、それと交換したい他人の保有物とはその性格が異なる。価値形態論では、A=BはB=Aを含意しない。

 この矛盾は、価値形態が、展開された価値形態、一般的価値形態、貨幣形態と弁証的に展開されることで解消される。貨幣とは価値を表示することを使用価値とする。貨幣は位置的には使用価値の位置(A=BのBの位置)にある。ところが、貨幣の使用価値とは、価値を表現することにあるから、価値が価値を表現することになり、矛盾は解消される。バネ秤は、バネの伸びた長さが吊るしている物の重さを表示する。このバネ秤の役割を、価値形態論では貨幣が果たすと言ってもよい。

 マルクスの理論は実にすばらしい。確かにマルクスは貨幣の謎を解いた。だが、欠点がある。それは価値形態論の前に、労働価値説(商品の価値は、その生産に必要な社会的平均労働時間だとする説)を展開したために、単純な価値形態から展開された価値形態へと進むときに、マルクスはA=Bの両辺が同じ労働時間を含むという論理を紛れ込ませてしまう。マルクスは労働価値説を確信し、資本論を展開したから、このような論理展開となったことは致し方ない面がある。だが、価値形態論に労働価値説は要らない。実際、マルクス主義者である宇野弘蔵は、マルクスが冒頭に労働価値説を持ってきたことを批判し、労働価値説抜きで価値形態論から資本論を始めている。価値形態論は労働価値説とは独立で、労働価値説を否定しても成り立つ。新古典派経済学など現代経済学の主流でも価値形態論は有効だと言ってよい。だからこそ、マルクスは凄いと言えるのだが、労働価値説を価値形態論に紛れ込ませたことで、その価値を損じてしまっている。

 そのことが明確に現れるのが、一般的価値形態における一般的等価物が貴金属になった時に、価値形態は貨幣形態になるという主張に現れている。マルクスにとって貨幣は貴金属、特に金だった。マルクスの時代にはすでに銀行券(紙幣)が普及していたが、紙幣はあくまでも金の補完物でしかなく、金こそが貨幣であるとマルクスは考えた。紙幣は生産にほとんど労働を要さず、労働価値説的に言えば価値はほとんどない。そのようなものは本質的に貨幣とはなりえない。生産に大量の労働を必要とする金こそが貨幣となりえる。これがマルクスの考えだった。マルクスは、金本位制がイギリスで確立した時代に生きた。この現実がマルクスの思想に影響したかもしれない。だが、いずれにしろ、これは正しくない。銀行券は金の裏付けを必要としない。ケインズが指摘したとおり金本位制は今では過去の遺物となっている。さらに現在では、貨幣は紙幣ですらない。通貨としての貨幣は、単にコンピュータネットワークに記録される数字にすぎない。日本のマネーストック(市場にある通貨の量)は一千兆円を超えているが紙幣の量は百兆円台に留まっている。そしてマネーストックの量と紙幣の量に明確な関係はない。北欧諸国などでは紙幣を廃止する動きすらある。つまり、貨幣は今や物理的実体のないものとなりつつある。

 だが、それは今に始まったことではなく、貨幣とは、そもそもの始まりから物理的実体の裏付けを必要としない記号に過ぎなかった。そして、マルクスが、20エレのリンネル=1着の上着という図式が矛盾をはらんだものであること、貨幣という存在が定立されることで矛盾が解消されることを証明したとき、貨幣形態とは、基本的に記号体系であることが明らかにされていた。マルクスの時代には貨幣が金だったとしても、それはやがて紙幣に代替され、最終的にはネットワーク上の数字へと転化することは、資本論において、論理的必然であることが明らかにされていたと言える。そして、現実もそのとおりになった。ただマルクスは労働価値説に囚われて自らの発見の意義を十分に理解していなかった。

 しかしながら、現実的には、貨幣には何らかの公共的な権威が必要となる。貨幣という記号体系は極めて安定的なシステムでないと経済は円滑に機能しない。その意味で貨幣は他の記号とは異質な性格を持つ。そしてその権威は、マルクスの時代においては金だった。当時、銀行券は金と一定量で交換可能であることで貨幣として通用した。そして、現代においては政府及び中央銀行の保証が金に取って代わって貨幣という記号体系を安定させる権威となっている。

 では、政府と中央銀行の保証は貨幣にとって不可欠な存在なのだろうか。マルクスの価値形態論は、貨幣という記号体系を権威づける存在が、金のような物理的な実体あるいは政府や中央銀行のような政治的・法的実体である必要はないことを示している。ビットコインなどの仮想通貨は(今のところ)政府や中央銀行という公的機関の保証はない。それゆえに仮想通貨は成功しないと論じる者もいる。しかし、価値形態論に拠れば、このような考え方には論理的必然性はない。コンピュータネットワークの拡大と情報処理技術の進歩、人々の考え方の変化で仮想通貨が広く使われるようになる可能性はある。ハイエクならば仮想通貨の登場を大いなる希望として高く評価しただろう。ただし、仮想通貨が普及するかどうかは論理的な問題ではなく実証的な問題であり、価値形態論がビットコインの成功を保証する訳ではない。

 いずれにしろ、貨幣とは根源的に記号であり、現代社会はその記号を支え、同時に支えられている。そして、それゆえ、社会は常に変化していく宿命にある。ただし、その未来を具体的に予測することは記号という性質上、極めて難しい。マルクスは、本人の信念とは別に、そのことを歴史上はじめて明らかにしたと言える。


(H29/8/20記)


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