井出 薫
技術という概念は多義的で、その本質を捉えることは容易ではない。しかし、技術の本質を問うことなしに、現代社会における技術の諸課題を解決することはできない。 技術という日本語を英訳するとき、分脈により、テクノロジー、テクニーク、アート、スキルなど異なる訳語が割り当てられる。また、英語のテクノロジーを和訳するとき、技術と訳されることもあれば、技術学と訳されることもある。技術という言葉は、「イチロー選手のバッティング技術」、「法運営の技術」などという使い方をされることもある。このように技術の概念は多義的だが、私たちが持つ技術のイメージを集約すると次のようになる。「科学の成果に基づき、道具や機械を使用して、実用的な目的を実現する方法や知識の体系」つまり、技術とは、人間が、何らかの目的のために使用する方法と(道具や機械などの)手段を意味する。 ハイデガーは、このような技術の解釈は正しいが、技術の本質を捉えていないと警告する。技術は、隠された存在を明るみに出すこと(開蔵)だとハイデガーは考える。そして、古代ギリシャにおいて、技術は創作する開蔵であったが、近代科学と結合した近代技術は、挑発する開蔵になったと指摘する。挑発する開蔵とは、存在にエネルギーの提供を強要しそれを目的のために用立てる(be-stellen)ことを意味する。原子力発電所は、地下に隠されていた放射性物質を掻き集めて、発電所でそのエネルギーを集約し電力に変える。水力発電所は、水の流れを堰き止め貯蔵し電力に変える。それは風車や原始的な農法のような自然に任せる、自然の恵みを使わせてもらう近代以前の技術とは全く性質が異なる。しかも、そこでは、人間が主体的にそれをなすのではなく、技術の本質に基づきそれをなす。人間は技術の本質に呼び掛けられ、それに応答しているに過ぎない。現代的な言い方をすれば、技術が人間を支配していると言い換えることができよう。そして、人間そのものが何らかの目的のために用立てられる対象=用象へと転落している。たとえばスマートフォンを私たちは自分の目的のために使っていると信じているが、実は、それを作りそれで利益を得ている製造業者や通信会社の道具に成り下がっている。さらに、そこで得られる情報を通じて、政府や企業に支配される(用立てられる)。だが、政治家や企業経営者も主体的に行動しているのではなく、挑発する開蔵としての技術に用立てられている存在でしかない。 では、人間を支配する技術の本質とは何だろう。ハイデガーは、それは集立(ge-stellen)だという。集めて用立てる、それが挑発する開蔵としての技術の本質をなす。ハイデガーの議論は、彼特有の造語が多く、いつもながらに分かり難い。しかも、よく考えると辻褄が合わないところや、納得しがたいところが多い。なぜ集立なのか、いつから集立なのか、技術は人がなす業であり超越者ではありえず技術の本質とは社会的諸関係と考えるべきではないか、など様々な疑問や異議がある。だが。それでも、現代の技術を思い浮かべるときハイデガーのリアリティを認めない訳にはいかない。 たとえばスマートフォンには実に多くの希少な元素が利用されている。それは地球上の限られた場所にしか存在しない。スマートフォンはそれらを集めて小さな製品に集約する。さらに、製造に使われる技術は世界の様々な場所で開発されている。スマートフォンだけではなく現代の技術的産物は正に世界中から集められ用立てられている。世界から集めて一つ箇所に集約し、何らかの目的のために使用する。そして、これらの技術の開発・製造・利用のために、世界中の至る所にモバイルインターネットが張り巡らされる。集められて用立てる、それは再び拡散する、そしてまた集められて用立てる。そこに暮らす個人の諸活動や思考は、その一環に過ぎない。これは正に現代技術の真相といえるのではないだろうか。 先にも述べたとおりハイデガーの思想には様々な欠陥が存在する。集立が技術の本質だとしても、それ以上遡ることができない限界だと考える必要はない。マルクスやエンゲルスならば、それは資本主義という社会体制が生み出す技術の性質だと指摘し、ハイデガーの思想は資本主義体制における労働者の搾取を技術の本質の問題にすり替えていると批判するに違いない。そして、そのような批判は確かに的を射ている。だが、資本主義を克服し、真に人間的な社会を生み出すはずだった20世紀の共産主義において、技術が資本主義以上に、集立という性質を帯びるに至ったことを考えると、集立という性質を資本主義における技術の特質と断じる訳にはいかない。それはおそらくより広い社会的歴史的傾向性に違いない。マルクスだけでは技術の問題は解決されない。 ハイデガーの技術論は半世紀以上前に展開された。しかし、そのリアリティは未だに失われず、むしろ、インターネットの普及でよりリアルなものとなっている。ハイデガーの技術論を過大評価するのは禁物だが、未だにそれを無視することはできない。 了
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