井出 薫
シマウマを学習する。シマウマを見るとそれをシマウマと答える。黄色という色を学習する。黄色を見分け黄色と答える。赤色も同じ。人間も人工知能も概念を学んで論理的に思考する。 人間は、三つの概念から架空の存在「赤地に黄色のシマウマ」を想像することができる。合成写真で赤地に黄色のシマウマを見せられると、「これは合成写真だ。赤地に黄色のシマウマはいない。」と答える。つまり、私たち人間は概念を適切に合成して新しい概念を容易に生み出すことができる。しかし、現在のところ、人工知能ではこれが難しい。近年脚光を浴びているディープラーニングでもこの課題は解決されていない。 別の例を考えよう。「金属製のシマウマ」、これも人間は容易に想像し、その意味を理解できる。しかし人工知能には難しい。概念と概念を結びつける規則を明確に定義することが難しく、そのため、それを人工知能に学習させることが難しい。そもそも、そんなことがなぜ人間は楽々とできるのかが分かっていない。「金属製のシマウマ」は意味があるが、「偏微分方程式のシマウマ」は意味がないと人間は直ちに認識する。金属製と偏微分方程式はどこが違うのか。もちろん、説明はできる。しかし、明快に両者を区別する基準が見いだせるかというとよくわからない。確かに偏微分方程式は金属のような物体ではなく、形容詞でもない。だが、文脈によっては、このような表現が意味を持つこともある。たとえば、人間より頭の良いシマウマが存在し、大学で数学の教授をしているという架空の物語を考えよう。その物語の中では、このような表現に意味が与えられ、それを理解することができる。シマウマの教授は偏微分方程式論の大家で、しかも教授の授業は分かりやすく学生の評判がよい。そのような状況であれば、「偏微分方程式のシマウマ」という表現は意味を持つ。そして、人間は、このような架空の状況を適切に理解する。しかし、このような芸当は今のところ人工知能では及びもつかない。(注) (注)もちろん、「偏微分方程式のシマウマ」という表現は無意味だと事前にデータベースに書き込んでおけば、人工知能はそれを認識する。「赤地に黄色のシマウマ」もそれを学習させれば、人工知能はそれを認識する。だが、問題はそういうことではない。「金属製のシマウマ」、「木彫りのシマウマ」、「絵の中のシマウマ」、「動物園のシマウマ」などは意味が明確だが、「偏微分方程式のシマウマ」、「液体のシマウマ」、「飛行機のシマウマ」などは意味不明だということを学習させることは極めて難しい。形式的には組み合わせ可能な概念が無数にあるからだ。また、赤地に黄色のシマウマの場合、シマウマ、黄色、赤色という三つの概念を学習すれば、そこから直ちに「赤地に黄色のシマウマ」という概念を理解できるようにしたいのだが、現状では、それは無理で、「赤地に黄色のシマウマ」を別に学習させることが必要になる。この点で人間の脳は極めて柔軟で創造性に富む。人工知能がいくら囲碁や将棋で人間に勝っても、まだまだ人間には遠く及ばない。 これは意味論の問題に繋がっている。意味論の問題は哲学でも、言語学でも、脳科学でも難問中の難問で、いまだに解決がなされていない。だから、人工知能にこういう意味に関わる判別や認識を与えることはできない。ディープラーニングなどの機械学習の技術で、意味を自動的に学習させることができると良いのだが、できない。どのように学習させるか、単純なパターン認識と異なり極めて難しい。と言うか、そのための方法が見いだされていない。 自然言語理解、それも単純な統辞論的な水準を超えて、本格的な意味論的次元での考察を必要とする自然言語理解は、いまだ人工知能にとって乗り越え困難な巨大な壁として立ち塞がっている。簡単なマニアル作成や翻訳くらいならば、人工知能にとってそう難しくはなく、一部実用化されている。しかし、本格的な自然言語理解はこれからの課題となっている。人工知能にとって最後のフロンティアだとする研究者もいる。 では、どうすればよいのだろうか。哲学に期待したいところだが、当てにはできない。意味の問題は存在の問題に密接に関係している。同じだと言っても過言ではない。なぜなら、存在を問うとは、存在の意味を問うことに等しく、意味を問うとは何らかの存在又は存在者の意味を問うことに等しいからだ。ハイデガーが述べている通り、偉大な哲学者は(形式はそれぞれ異なるが)同じ問いを問う。それは「存在とは何か」という問いで、「意味とは何か」に直結している。そして、事実、古代ギリシャ以来すべての哲学者が答えを求めながら、ハイデガーも含めて、この問題を解決することができなかった。だから晩年のハイデガーはそれを諦めて、存在の声を聴くことに徹しようとした。哲学では意味の問題は解決できないと思われる。 言語学やコンピュータサイエンス、脳科学でも限界がある。なぜなら、言語学やコンピュータサイエンスでは、意味は統辞論的な次元でとらえるしかなく、脳科学では電気信号や化学変化の水準でしか問題を立てることができないからだ。それは「意味」には届かない。 だから、これらの学の成果を待っていたのでは、意味を知り、それに基づき概念を巧みに組み立てていくこと(それは自由に自然言語を操ることに等しい)ができる人工知能を作り出すことはできない。 むしろ、(ディープラーニングに拘ることなく)様々な手法を用いて試行錯誤をし、人工知能の進歩を図ることの方が、突破口を開くことに繋がるだろう。 人工知能は、ある意味で人間の知能の限界を示している。人間の知能は人間が作ったものではなく自然が生み出した。人間の知能には知能を生み出す力はないのかもしれない。だとすると偶然に身を任せながら技術的工夫を繰り返すことでしか真の意味での人工知能は生み出されない。逆に、それにより、2千年来の哲学的難問「存在と意味の問題」の解決が可能となることが期待される。だが、いずれにしろ、それは容易ではなく、そう簡単には鍵は見つからないと予想する。 了
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