☆ 技術の支配 ☆

井出 薫

 携帯電話など使わないと周囲に宣言していた。四半世紀前の自分のことだ。当時の上司はパソコンなど普及しないと断言していた。それから数年後、インターネットが普及し始めた頃、インターネットは一時の流行に過ぎず、すぐに飽きられ消えると自信満々に予言した同僚がいた。

 ところが、いまの私は携帯無しでは暮らせない。手許にないと不安になる。だから家や会社に置き忘れたことに気付くと必ず取りに帰る。当時の上司は知人との連絡にメールを使っている。インターネットの消滅を予言した同僚はインターネットで情報発信して得意になっている。予言は悉く外れ、揃いも揃って技術の虜になっている。

 技術が人と社会を大きく変えることは、インターネットや携帯電話に限ったことではない。電気、自動車、鉄道、航空機、家電などは、インターネットや携帯電話よりも遥かに大きく私たちの生活を変えた。いつの時代だって技術は人を虜にしてきた。

 技術は人の道具のはずなのに、寧ろ、人が技術の道具になっているかのように見える。無論、技術は人の技であり、それ自身が自律して人を支配する訳ではない。近頃は人工知能が自己学習するようになったが、学習の目的を決めるのは人で、人が支配していることに変わりはない。将来はどうか分からないが、現時点では、技術が自律して人を支配することはない。技術の背後には必ず人がいる。では誰が支配しているのだろう。権力者?資本家?だが技術は権力者や資本家の思うとおりには発展普及しない。ソ連型の共産主義が失敗に終わったことがそれを証明している。では、支配者は誰なのか。

 これに対して、こう反論する者がいるだろう。「支配という表現は比喩に過ぎない。有益だから使うようになった、それだけのことであり支配者などいない。視力が弱い者の眼鏡のように技術は人々の暮らしに役立っている。それが普及すれば、それなしには生活ができなくなる。長時間停電したときのことを想像すれば、それはすぐに分かる。そのことを比喩的に「支配されている」と表現している。しかし、それはあくまでも比喩であり、そこに支配者がいる訳ではない。」

 このような考えを間違いだと言うつもりはない。だが、少し楽観的過ぎると指摘せざるを得ない。核兵器は有益だろうか。有益なはずがない。そんなものはない方がよいと誰もが考えている。ただそれがないと平和を守れないと信じる者が少なからずいる。原子力発電は有益だろうか。確かに多くの者がそう信じた時代もあった。しかし、今では、お荷物になっている。私たちの周囲にある様々な物たち、それは本当に有益なのだろうか。無駄な物がたくさんあることに気が付くと思われる。

 技術の発展や普及は専ら有益性に基づくものではない。やはり、そこに「技術の支配」という言葉で表現すべき現実がある。そして、技術を介して支配する者は誰なのかと問うことには意義がある。

 この問いにここで答えを与えることはできない。それは私の能力を遥かに超える。ただ、この問いに対する答えはただ一つではないと考える。技術の発展普及には、国の政策や企業家たちの意図が大きな役割を果たすこともあれば、一般大衆の遊び心が大きな役割を果たすこともある。自然環境の変化や巨大な自然災害が引き金となり新技術の発展普及を促すこともある。新しい科学の発見が目覚ましい新技術の発明をもたらすこともある。それぞれで、支配者は異なる。国家、企業家、支配され同時に支配する大衆、自然、科学者、主役=支配者はその都度、変わる。また、技術の進化には連続性が見られることもあり、その場合、技術自身に発展の契機が含まれているように見える。そのため、支配の一般論を構築することは容易ではない。そして、ここに技術を論じることの難しさがある。(注)
(注)科学哲学は日本にも学会があり、多数の著作がある。論理実証主義からパラダイム論など科学哲学の歴史を語ることもできる。それに対して、技術哲学は著作も乏しく、歴史もあるとは言い難い。本稿で論じたことがその理由の一つを語っているようにも思える。


(H29/6/25記)


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