井出 薫
ケインズは1930年の論説で、100年後の世界がどうなっているかを考察し、資本の蓄積と技術進歩で経済的な問題は解決し、人は働かなくてもよくなると予言した。ケインズは大恐慌で悲観論が蔓延する中、それを批判するためにこのような楽観的な予言をしたという面もある。しかし、ケインズが未来に明るい展望を持っていたのは事実だろう。彼が心配するのは、むしろ、働かなくてもよくなった人々が退屈に耐えられるかどうかだった。人々は、あまりにも長い間、長時間、労働するように訓練されてきた。だから働く必要がなくなったとき、何をすればよいか途方に暮れる。そこでケインズは週3日、1日5時間、週15時間働くことを提唱した。そして、彼は、やがて人々は働いて金を稼ぐことよりずっと大切なことがたくさんあることを学び、それを大事にするようになるだろうと結論付けた。ケインズは、技術進歩を肯定的にとらえ、明るい未来を展望した。 マルクスも、ケインズと同じで技術進歩を肯定し明るい未来を展望した。ただケインズと異なり、マルクスはそのためには共産主義革命が欠かせないと考える。資本主義体制では、機械は労働者の仕事を奪い労働者を悲惨な目に合わせる。だがそれは機械が資本主義的に充当される限りのことで、共産主義になれば機械が労働の必要性を軽減し、人々は趣味や創造的な活動に専念することができるようになる。マルクスはそう考えた。 マルクスとケインズは、共産主義革命の必要性に関しては明確に対立するが、技術を肯定的にとらえ、その進歩が人々に幸福をもたらすと予想していた点では共通する。しかし、誰もが技術とその進歩を肯定的に捉える訳ではない。 ハイデガーは技術を警戒し、未来を楽観することはない。ハイデガーによると、近代科学と結びついた技術は、存在を挑発しエネルギーを引き渡すことを強要する。しかも、それは人が主体的に遂行するものではなく、技術の支配のもとで遂行されるとする。そこでは、人そのものが技術の対象、もの化されている。だから、人は主体的な思考や活動で、技術の在り方を転換することはできない。技術はますます進化し、社会に浸透し、人を支配するものとなる。こう考えるハイデガーは、それに抗う存在として、その起源において技術と密接な関係にあった芸術、特に詩作に期待する。しかし、詩を作ること、読むことで技術の進歩とその社会への浸透に抗うことはできそうもない。ハイデガーの診断が正しいのであれば、人はやがて技術の奴隷になるか、技術で滅ぶ。 AIの進歩と普及で人々は仕事を奪われると言われている。このような予測を3人の考えに当てはめるとどうなるだろう。ケインズの見方に従えば、働くことに馴らされた人々が働く必要がなくなることを無意識のうちに恐れていると診断することができる。AIは仕事を奪うのではなく、仕事を減らす、それどころか、しなくて済むようにしてくれる、という風に発想することができない。それだけのことなのだ。マルクスに従うと、危惧することは理解できる、事実仕事を奪われる。だがそれは資本主義が続く間だけで、共産主義が実現されれば、ケインズが予想するところと同じになる。そして共産主義は歴史の必然であるから、しばらく我慢すれば明るい未来が訪れる。ケインズが正しければ一番良いが、マルクスでも悪くない。健康を保ち革命が起きるのを待てばよい。だが、ハイデガーが正しいとするとそうはいかない。AIは仕事を奪うだけではなく、技術の支配が強大になり、人間は完全に技術の僕になる。世界はAIを有する機械が支配し、AIは必要に応じて人間を使って世界を変えていく。それは平和な世界かもしれないが、人間はその本質を失い、ただAIの監視と慈悲の下で、受動的に生を紡ぐ無力な存在、動物園の動物たちと同じ存在に成り下がる。 さて、三人の誰が正しいだろうか。それは未来が決める。ただハイデガーの考えは悲観的、否定的過ぎると思える。技術の進歩で、人々の寿命は延び、人口は急増した。様々な社会的な問題が技術進歩で解決されている。民主と人権の普及も、通信や運輸、印刷技術の進歩、産業の拡大と生産量の増大などがなくてはありえなかった。江戸時代の技術水準では民主や人権は期待すべくもなかった。 では、マルクスかケインズ、いずれかが正しいと言えるのだろうか。核兵器などの大量破壊兵器や化学兵器のような残虐な兵器の存在は技術の持つ暗い側面を強く印象付ける。誰も核兵器や化学兵器で殺したり殺されたりすることを願っていない。それらがなくなればよいと思っている。だが、それらが廃絶される見通しはない。それは政治の問題であり技術の所為ではないと思えるかもしれない。だがそれほど問題は簡単ではない。残酷で強力な兵器の存在は、技術が政治的な道具であるとともに、人々が技術に魅了され支配されることを暗示している。それは単に政治や倫理の問題に留まらない。地球温暖化や環境の問題でも、政治や倫理だけでは解決できない難題、技術の存在そのものに起因する難題が潜んでいると感じられる。その意味で、ハイデガーは現代の科学技術に対して否定的過ぎると批判することはできても、そこに一定の真理があることは認めないわけにはいかない。要するに、一概に、ハイデガーではなくマルクスやケインズが正しいとは言えない。 尤も、そもそもの前提、技術が限りなく進歩していくという前提自体が間違っているかもしれない。ディープラーニングやクリスパーキャスナインなどの成功で、人々は技術が無限に進歩しあらゆることが可能となると思い込んでいる。前世紀の50年代から60年代、コンピュータ、抗生物質、人工衛星、様々な便利な家電製品などの新技術の登場に刺激され、人々は、科学技術の進歩で、人々が望むあらゆることが可能となる時が来る、それも遠くない将来だと信じていた。つまり半世紀前、今と同じ状況が生じていた。しかし、そうはならず、人々はやがてそれが幻想であったと気づき、科学技術神話は姿を消した。インターネット、AI、遺伝子編集、ナノテクなどの登場で、それが再び到来したが、いずれは幻想であることに気づかされる。そう予測する者もいる。そうだとすると、ケインズ、マルクス、ハイデガーのいずれの予測も当たらないということになるだろう。彼らの予測には暗黙の裡に技術が限りなく進歩することが前提されているからだ。 私は、ハイデガーは間違っており、ケインズとマルクスの中間くらいに真実があると考えている。共産主義革命までは必要ないが、それでも資本主義の抜本的な改革が必要で、そして実際にそれは実現し、その後は素晴らしい未来が開ける。そのような予想をしている。技術の発展については、50年代から60年代の科学技術神話は行き詰ったが、今回は違う。私たちは前世紀の遺産で、冷静で合理的に技術を評価できるようになっている。まず、できないことや極めて困難なことをはっきりと理解できるようになった。高速増殖炉は実現困難で実現しても実用化する意義は乏しい。核融合は実現が極めて難しく、実用化できるかできないかすら分からない。地震の正確な予知は不可能で、せいぜいのところ、リスクの評価くらいしかできない。月や海底に都市を建設することは、たとえ可能だとしても、その実現は時期の予測が不可能な遠い将来のこととなる。こういうことを私たちは今では認識している。そして、そういう認識の下で、将来の科学技術の進歩を評価している。技術進歩の予測は、まだまだ精度は低い。だが、それでも前世紀の50年代、60年代よりもずっと精度は上がっている。だからこそ、ケインズとマルクスの中間に真実があると考える。 これに対して、倫理の問題が無視されていると指摘する者もいるかもしれない。技術の発展や資本の蓄積、社会体制の変革だけでは善き世界は実現できない。核兵器や化学兵器の廃絶は、制度や技術、資本蓄積だけでは実現しえない。人間が道徳的により高い存在にならない限り、課題は解決されない。かつて共産主義革命さえ実現すれば、あらゆる問題が解決されると夢想した者たちがいたが、間違っていた。体制の変革だけでは問題は解消されず、道徳的な向上が欠かせない。なるほど、その通りで、体制の変革、資本蓄積、技術進歩だけですべてが解決されるとは思っていない。人が良くならないとならない。だが、人は、道徳的考慮で良くなったり悪くなったりするよりもはるかに、社会や技術の変化にその振る舞いや思想が影響される。それゆえ、倫理の問題は重要であるが、それが未来を制約すると考える必要はない。 私の考えは楽観的過ぎると感じる者が多いかもしれない。しかし、悲観する必要はないし、悲観することに益は少ない。課題をしっっかり認識しながら、技術の肯定的な力を信頼して、未来を切り開いていくことが望まれる。 了
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