井出 薫
倫理学では次のような事例がよく取り上げられる。 「身体の大きい男が鉄道を横断する陸橋から下をみている。男の真下にある線路をブレーキの壊れた列車が走ってくる。線路の先では5名の作業員が仕事をしているが、列車に気が付かない。このままでは5名は轢死する。しかし男を線路に突き落とせば列車は止まり、5名の作業員は助かる。それでは、男を突き落してもよいだろうか。」 こういう問題はくだらないと思うかもしれない。現実問題として、男を突き落しても5名が助かるかどうかは分からないし、そうしないと5名が本当に轢死するかどうかも分からない。ありえもしない事例を考えても無駄な気がする。 しかし、そうではない。こういう架空の状況を想定して、男を突き落すことの是非を議論することは意味がある。そこから倫理の本質を解明する糸口が見いだせるからだ。そのことを具体的に示そう。 ほとんどの者が、この問いに「いいえ」と答える。たとえ最大多数の最大幸福を唱える功利主義者でも男を突き落すことに合意するとは思えない。なぜだろう。 列車に撥ねられるは事故であり、殺人ではない。死亡事故は十分に注意し技術が進歩しても完全には無くならない。一方、男を突き落せば確実に殺人であり、たとえそれで5名の命が助かるとしても、容認されない。事故による死と殺人による死を同一の次元で議論することはできないからだ。殺人が許されるのは、ただ、相手が自分ないし他人の殺害を実行しようとしており、それを阻止するにはその人物を殺すしかないときだけだと言ってよい。だから、男が5名を殺そうとしているのではない限り、男を突き落すことは許されない。このことから、5名が死ぬより1名が死ぬだけで済む方が良いという単純な功利主義的計算はこの場合、成立しないことが分かる。こう言った単純計算が有効かどうかは時と場合による。水難事故で救助を求めているグループが二組あったとする。どちらも緊急を要する事態にある。そこに救助隊が駆けつけるが、人数が足りず二組同時に救助はできない。どちらを優先するか。一つのグループは10名、もう一つのグループは5名からなるとしよう。救助隊は10名のグループの救助を優先することにした。その判断をほとんどの者が支持するに違いない。この場合は功利主義的計算が有効になる。ここまでの議論は、ほとんどの者が同意するだろう。 次に、陸橋から下を眺めている男が5名の作業員の殺害を企て列車を暴走させたとしよう。その場合は、(他に5名を助ける方法がないとして)男を突き落すことは正当化されるだろうか。おそらく、ここで意見は分かれる。いかなる理由があるにせよ、橋の上から突き落として殺すことは認められないと考える者がいる。列車を暴走させたという過去の行為と、射殺しようとして相手に拳銃を向けて引金をひこうとしている現在の行為とでは訳が違う。後者の場合は殺害を阻止するために警官がその人物を射殺することが認められるが、前者で警官が男を突き落すことは認められない。こういう議論をする者もいる。一方、橋の上の男は殺人者であり、殺人を阻止するために、他に方法がなければその男を突き落とすことは容認されると考える者もいる。こう考える者は、列車を暴走させたという過去の行為と、今まさに引金をひこうとしていることとは倫理的には同等だという考えに同意していることになる。さて、どの考えが正しいだろうか。おそらく、カント的な義務倫理を支持する者は最初か二番目の考えに賛同し、功利主義を支持する者は最後の考えに賛同する。意見は分かれ、どれが正しいかを決めることは極めて難しい。 ここで、最初に戻ろう。男が殺害を企てたのではない限り、突き落すことは認められないと述べた。だが、男と同じような倫理的な位置にありながら、殺された者がたくさんいるのではないだろうか。広島、長崎の原爆投下は戦争を早期に終結し犠牲者を増やさないために必要な措置だったと言われることがある。米国では今でもそれが多数意見だと言われている。しかし、広島、長崎で死んだ多くの者は一般市民だった。一般市民は米国兵を殺そうとしていた訳ではないし、日本兵に殺すように命じた訳でもない。それなのに原爆を投下され多くの市民が命を失った。戦前の日本が悪いことをたくさんしたという事実も、当時の日本の権力者たちを断罪する理由にはなっても、一般市民に対する原爆投下を正当化することにはならない。実際、米国や英国でも、「正義論」で日本でも有名なロールズや、ウィトゲンシュタインの弟子の一人、アンスコムは原爆投下を厳しく批判している。しかし、これに対しては、戦争という状況で国家が下す決断は、個人的な出来事とは異なるという意見がある。しかし、国家と個人、戦時と平時をどのように分けて考えればよいのか定かではない。 このように、架空の事例を想定して倫理的な検討をすることは、そこに隠されている様々な問題を明らかにするという意味で、大きな意義がある。そして、現代における哲学の存在意義もここにあるように思われる。 了
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