☆ 自由とは何か ☆

井出 薫

 すべてが物理法則に従っているならば、自由など存在しない。こういう議論がある。古典物理学の世界では、初期条件が決まれば未来は一つに決まる。そこには自由が存在する余地はない。一方、量子論の世界では統計的にしか未来が決まらない。しかし、そこにあるのは非決定性であり自由ではない。Aの確率が50%、Bの確率が50%だとしても、人間がどちらかを選択できる訳ではない。それゆえ、どのような物理法則が成立していようと、物理法則が普遍的なものである限り、自由など存在せず、ただ、人が自分は自由だと信じているに過ぎない。そして、事実、物理法則は普遍的なものと考えられている。それゆえ、自由とか自由意志とかいうものは幻想に過ぎないことになる。だが、この議論は正しいのだろうか。

 ヘーゲルは自由とは意識された必然だと言う。マルクスや(マルクスの盟友)エンゲルスもヘーゲルの観念論を批判しつつ、自由を意識された必然と解釈する。必然を認識するとき、人は必然の支配から脱却し自由となる。認識する以前は、人は必然に盲目的に支配される受動的な存在に過ぎなかった。しかし必然を認識することで、人は計画を策定し、その実現のために必然的な諸法則を能動的に活用することができるようになる。必然は自由を拒むものではなく、寧ろ、自由の前提だと言ってもよい。必然的な物理法則が普遍的に成立するとしても、それを認識することで様々な目的に活用できる。事実、科学的認識の発展は文明を高度化し、人間の自由を拡大してきた。要するに、自由と必然は対立する概念ではなく、補完し合う概念なのだ。自由を何者にも拘束されない完全なる自己決定性・創造性として捉えるから、必然と自由が相容れないように感じる。しかし、そのような完全なる自己決定性・創造性など存在しない。もし、そのような能力を人が持っていて、それに基づきAという行為をしたとしたら、「なぜAという行為をしたのか」と尋ねられたときに答えることができない。そして、そのことで自分の行為を恐ろしく感じ不安になるだろう。だが心配はない。そのようなことはありえない。それゆえ、自由と必然は両立する。

 このように、物理法則が普遍的だとしても、自由が存在しないことにはならない。寧ろ、法則性が存在するからこそ、自由であり得る。もし、何の法則性もない世界に生きていたら、計画を策定することも実行することもできない。そこは自由ではなく完全に自由を欠いた世界となる。自由に秩序は欠かせない。

 だが、自由をこのような哲学的な問題として捉えること自体に違和感がある者も多いだろう。私たちは、自由をこのような形而上学的な概念としてではなく、もっと日常的なものとして理解している。実際、自由をもっと緩やかな概念として扱うことができる。

 ある人物が自分は自由だと感じ、その人物が所属する共同体から自由な存在と承認されている状態を、自由という言葉で表現することができる。さらに、全ての者が自由を感じ、それを互いに承認している、この二つの条件が成立しているとき、本当の意味での自由が存在すると言える。そして二つの条件が成立するためには、良きコミュニケーション(注)が成立している必要がある。また、逆に良きコミュニケーションが成立するためには、二つの条件が成立する必要がある。つまり自由とは良きコミュニケーションの成立と等価とみなすことができる。
(注)「良きコミュニケーション」とは、参加者が対等な立場にあり、互いに他者の意見に配慮しながら議論するような場とその状況を意味する。良きコミュニケーションの具体的な条件や内容など詳細は別の機会に譲る。

 自由を哲学的な観点から論じることはけっして無意味ではないが、コミュニケーションとの連関において論じることが最も有益だと思われる。そして、それがヘーゲルやマルクス、エンゲルスの思想を現代に活かすことに繋がる。(注)
(注)必然を意識するためにはコミュニケーションが欠かせない。私が必然だと信じているだけでは、それは必然ではない。コミュニケーションを通じて他者が承認して初めて必然であることが明らかになる。ヘーゲルたちが語る「意識された必然」は、私の意識ではなく、コミュニケーションを通じて形成された私たちの意識を指示している。


(H29/5/14記)


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