☆ 価値形態論の意義と限界 ☆

井出 薫

 マルクス「資本論」の第1章で展開される価値形態論は極めて重要な考察で、柄谷行人や岩井克人などに決定的な影響を与えた。

 価値形態論で、マルクスは、「20エレのリンネル=1着の上着」という商品交換の図式には本質的な非対称性(矛盾)があることを示す。「20エレのリンネル」は商品価値を示す相対的価値形態にあり、「1着の上着」は使用価値を示す等価形態にある。つまり、この式の左辺は価値を表示し、右辺は使用価値を表示する。価値がそれとは異質な使用価値で表現されている。それゆえ、この図式には長さと重さを等置するような矛盾が存在する。そこで、マルクスは、長さが重さを表示するばね秤のように、価値を尺度することを使用価値とする特殊商品が一般的等価物となることで、この矛盾が解消されると主張する。更に、マルクスによれば、一般的等価物が貴金属、特に金になるとき、価値形態は貨幣形態となる。

 マルクスの議論は興味深いものであり、貨幣の重要な側面(=価値を表示し、交換を媒介する存在)を明らかにする。しかし、そこには限界がある。貨幣に先立つ商品交換の社会など存在しない。文化人類学は、歴史の最初期には、共同体における物の移動は、贈与と贈与の連鎖という形態で現れることを明らかにしている。交換は贈与の一形態である互酬として付随的に現れるに過ぎない。贈与とそれと表裏一体の負債、そこから貨幣が誕生して、その後、交換が一般化したと考える者もいる。いずれにしろ、(物々交換という)商品交換から貨幣が生じたという事実はない。それゆえ、交換図式から貨幣を導く遣り方では、貨幣の本質を解明することにはならない。

 マルクスの資本論では、商品、価値(=商品価値、現象形態としては交換価値)、貨幣という順序で論理が展開する。しかし、歴史の事実を考慮すれば、この順序は逆になる。貨幣が最初で、そこから商品価値という概念が生まれ、商品価値を有するモノ(労働生産物とは限らない)が商品となる。商品から貨幣が生まれるのではなく、貨幣が商品を生み出す。勿論、だからと言ってマルクス資本論が間違っていることにはならない。歴史的順序と学的論述の順序が一致する必要はないからだ。資本論の冒頭で、マルクスは、資本主義の特徴として「社会的富が商品の集合体として現れること」を挙げている。だから「商品から始める」とマルクスは言う。それゆえ、マルクスはここで歴史的な順序と論理的順序を明確に切り離していると言える。だとすれば、歴史的な順序を論拠にしてマルクスを批判するのは的外れだという反論が成り立つ。だが、マルクスはしばしば歴史的な事実に訴えて自説の正当性を論証しようとしている。そして、マルクスが歴史の最初に物々交換の社会があったことを想定していたことはほぼ間違いない。さらに、論理的に考えても、商品に二重の価値(交換価値として現象する価値と使用価値)を見い出すためには、最初に「価値」という概念を商品に付与しておく必要がある。タネのない手品は無い。そして「価値」という概念は、貨幣が媒介しない物々交換の社会が存在しないのであれば、交換を媒介する貨幣が存在しない限り存在しない。贈与と負債だけの原始的な共同体には資本主義社会における価値に相当するものはないからだ。それゆえ、貨幣を出発点とし、そこから(交換価値として現象する)価値という概念へと進み、それがモノを商品にしたと考える方が論理的にも筋が通っている。しかも歴史とも合致する。要するに、商品はそれ自体で存在するのではなく、貨幣が媒介するモノとして初めて存在する。資本主義は、「商品の集合体」というよりも、「貨幣で必要なモノが全て手に入る」ということで特徴づけられる。

 また、これに対応して、価値形態論も、マルクス資本論の論述、単純な価値形態→展開された価値形態→(一般的等価物を有する)一般的価値形態→貨幣形態という順ではなく、貨幣形態→一般的価値形態→単純な価値形態→展開された価値形態という順に変えた方がよいだろう(注)。マルクスは、価値形態論で貨幣の謎を解こうとしたが、貨幣の謎は交換という図式では解明されない。価値形態論は貨幣の謎を解明することではなく、資本主義の本質の一部(貨幣という記号があらゆるモノを媒介し、あらゆるモノを商品とすること)を解明することに意義がある。また、資本論の論述も、商品から始めるのではなく、貨幣から始めるべきと考えられる。実際、資本主義とは、資本家も労働者も貨幣を希求することによりあらゆる活動が駆動されている社会であり、貨幣が冒頭に置かれることが相応しい。
(注)この順番については、より深い検討が必要であり、課題として残し、ここでは議論しない。


(H29/4/9記)


[ Back ]



Copyright(c) 2003 IDEA-MOO All Rights Reserved.